戴昌戴 昌(たい しょう、? - ?)は、中国三国時代の呉・西晋の政治家・軍人。徐州広陵郡の人。 生涯呉の左将軍の戴烈の子として生まれた。戴烈は赤烏13年(250年)、魏の王昶・州泰・王基らが南郡・西陵に攻め寄せた時に、陸凱に従って救援したことで知られる。 戴昌は呉では太尉まで出世したが、盛彦が8歳の時に戴昌の元を訪れ、戴昌は盛彦に詩を贈るのをみて、盛彦は戴昌の傍に座り返事の詩を返したという[1]。 呉の滅亡後には晋に仕えて武陵郡太守に任じられた。戴昌は議論をよくしたが、潘京と一緒に議論する時があり、潘京は戴昌が自分程議論がうまくないと感じ、戴昌が潘京と議論ができる人を探しに行くのを笑って見守り、戴昌がようやく子の戴淵を連れてきて議論させると、潘京はようやく議論に高じることができたという。戴昌は潘京と戴淵との議論を盗み聞きして言った。「才能は貸し借りできるものではないな」。それで戴昌・戴淵親子は潘京に敬服して接したという[2]。 戴昌はその後会稽郡太守に任じられ、亡くなったといわれている。 子孫伝記資料
脚注 |