成都武侯祠成都武侯祠(せいとぶこうし)は、中華人民共和国四川省成都市武侯区にある祠堂。三国時代の蜀の丞相・諸葛亮やその主君劉備などを祀る。 諸葛亮を祀った「武侯祠」と呼ばれる祠堂は中国各地にあるが、その中でも有名なもののひとつである。 概要武侯祠の「武侯」とは「忠武侯」と諡号された諸葛亮を指し、彼を祀る霊廟を意味する。しかし、後世に『三国志』や『三国志演義』などで、諸葛亮以外の蜀漢の武将や家臣、さらに主君である蜀の先主・劉備や後主・劉禅なども祀られるようになった。劉禅は「亡国の暗君」とみなされたため、南宋の頃に廃祀された。223年に劉備の陵墓である恵陵が造営され、劉備の霊廟も造営された。成漢の李雄は武侯祠を造営し、今の場所に移した。現在のような諸葛亮と劉備を祀る霊廟に整備されたのは明朝の頃である。 現在の遺構は清朝の頃のものであり、「成都武侯祠博物院」として1961年に中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。 霊廟内には関羽・張飛などの蜀漢の武将の塑像が並び、奥に諸葛亮の塑像や劉備の塑像がある。いずれもが後世の製作で、『三国志演義』によって形成されたイメージに基づくものである。
対聯「攻心」について成都武侯祠内に飾られている40種弱の対聯のなかでもっとも名高い、清の趙藩(雲南省出身)の作品を紹介する。「攻心(聯)」と呼ばれ諸葛亮殿に掲げられている。 能攻心則反側自消、従古知兵非好戦。 不審勢即寛厳皆誤、後来治蜀要深思。 よく心を攻めればすなわち反側も自ずから消ゆ、いにしえより兵を知るは戦を好むに非ず。勢を審らかにせずんばすなわち寛厳みな誤る、後来蜀を治めるに深思を要さん。 諸葛亮と馬謖との関係を踏まえたもので、前聯は七縦七擒の挿話、後聯は「泣いて馬謖を斬る」の故事を背景としている。後聯については、諸葛亮の厳格と劉璋の寛容とのふたりの政治姿勢の違いを述べたものとの解釈もある。清光緒28年(1902年)、四川塩茶使者の官にあった趙藩が当時の四川総督への忠告として作成した。毛沢東が強い関心を寄せた対聯としても知られ、再度成都武侯祠を訪れている[1]。 関連項目脚注
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