成粛皇后
成粛皇后(せいしゅくこうごう)は、南宋の孝宗の皇后。姓は謝氏。 生涯鎮江府丹陽県の人[4]。実父の謝寧[3]を早くに亡くし、翟氏の養女となった。その後、後宮に入り、高宗の皇后呉氏の侍女を務めた[4]。 紹興31年(1161年)、建王趙伯琮(後の孝宗)に側室[5]として与えられ、咸安郡夫人に封ぜられた[3][4]。孝宗が即位すると、婉容に封ぜられた[3]。隆興2年(1164年)、貴妃に上った[3]。質素だが細やかな性格で、夏皇后と死別した孝宗に誠実に仕えた。淳熙3年(1176年)8月、太上皇(高宗)の薦めにより皇后に冊立され、元の姓氏を戻した[4]。 淳熙16年(1189年)2月、孝宗は子の光宗に譲位して太上皇となった。紹熙元年(1190年)正月、謝氏は寿成皇后と呼ばれた[3]。慶元元年(1195年)11月、寿成恵慈皇太后と加号した[6]。慶元6年(1200年)8月、寿成恵慈太皇太后となり[3]、嘉泰2年(1202年)10月、寿成恵聖慈祐太皇太后と加号した[7]。 開禧3年5月16日(1207年6月13日)、寿慈殿にて崩御。「成粛」と諡され[8]、孝宗の永阜陵に合葬された[3][9]。 脚注
伝記資料
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