成井立歩成井 立歩[1][2](なるい たっぽ[3][4]、本名:正直[5](まさなお)[3][4]、1925年[3](大正14年)[2]3月19日[6] - 2010年(平成22年)2月25日[7])は日本の栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」の陶芸家である[2][4]。 「円道寺窯」[5]3代目当主であり[1][3][4]、成井藤夫、成井恒雄、成井清治の兄である[8]。 益子生まれの長老的な存在として重宝され[9]、また大の酒好きだったので[10]「酒仙の陶工」とも呼ばれていた[11][12]。 生涯1925年(大正14年)[2]3月19日、栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」有数の窯元である「円道寺窯」[5][2]2代目・成井金治[13]の長男として生まれる[6]。 1946年(昭和21年)、戦地から復員し、父・金治に師事[14]。家業である「円道寺窯」で陶器制作に従事するようになり[6]、「円道寺窯」[5]3代目となる[1][4]。 弟である成井恒雄に「敵わなかった」と言わしめる程の「轆轤の名人」であり、伝統的な蹴り轆轤を駆使した大胆な造形で作陶していた[4][7]。 また弟の恒雄と同様、弟子は取らないが請われれば教える方針であり、多くの弟子を取り、数多くの後進を育てた[4]。 若い頃は濱田庄司や河井寛次郎や柳宗悦が「円道寺窯」によく指導に来ていたという[14]。 そして合田好道の指導により「赤絵」を手掛けるようになり[12]、「益子赤絵」「円道寺赤絵」と称された、個性的な赤絵を主体とした作風であった。 そしてその自由奔放かつ豪快な筆使いから「益子のピカソ」と呼ばれた[10]。 酒と仕事とどちらが好きか、と問われれば「どちらもいいね」と答えるほどに無類の酒好きで四六時中酔っており、常にお酒の匂いをさせながら、下駄を鳴らして散歩しているかと思えば、何時間も「土と遊ぶ」人であった[12]。 1972年(昭和47年)[2]にはオーストラリアに2ヶ月間滞在し作陶活動を行い、シドニーなどで個展を開催した[3][2][4]。 2010年(平成22年)2月25日、益子町の自宅で逝去した[7]。享年84[15]。 弟子
他にも外国人の弟子も受け入れていた[14]。 脚注出典
参考文献
|