徳性寺 (文京区)
歴史1616年(元和2年)、然蓮社廓誉によって開山された。元々は湯島妻恋坂に位置していたが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で現在地に移転した[1]。 かつては恵心僧都源信作の阿弥陀如来像と「頬焼地蔵尊」と呼ばれる地蔵菩薩像があったが、1945年(昭和20年)の空襲で、両方とも焼失した。戦後に再造された[1]。 頬焼地蔵尊下総国相馬郡大柏村(現・茨城県守谷市大柏)の豪農の下で働く一人の下女がいた。豪農の妻は、日頃からこの下女に辛く当たっていた。ある日、豪農の妻は下女を折檻し、焼火箸を下女の頬に押し当てた。ところが下女の頬にやけどの痕がなく、その代わりに屋敷の庭にあった地蔵堂から煙が出ていた。中を覗いたところ、地蔵の頬が焦げていた。そういうこともあって、下女の身代わりになった「頬焼地蔵尊」として崇められるようになり、縁があった当寺に奉納されることになった[1]。 墓所交通アクセス
脚注参考文献
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