徐紹卿
徐 紹卿[2](じょ しょうきょう)は中華民国、満洲国の政治家・外交官。満洲国では奉天省省長などをつとめた。妻は日本人である[3]。 事績奉天省立中学を卒業。日本に留学して1927年(民国16年/昭和2年)3月、東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、併せて農学士の称号を取得した[4]。帰国後は東三省兵工廠で技師、廠長となる。 満洲国成立直前の1932年(民国21年)1月に、奉天省政府諮議となる。満洲国建国後の同年4月、奉天省実業庁庁長に就任した。1934年(康徳元年)12月1日、錦州省省長に特任される[5]。1937年(康徳4年)6月30日、新京特別市市長に異動する[6]。翌年2月10日、駐伊特命全権公使兼駐西公使に任命された[7]。1940年(康徳7年)3月、帰国して郵政総局局長となる。1942年(康徳9年)9月28日、奉天省長に特任された[8][9]。翌年4月20日、徐は奉天省長を依願免官し、5月2日、満洲中央銀行副総裁に任命された(総裁は西山勉)[10]。 満洲国滅亡後、徐紹卿は長春で満洲中央銀行の残務処理に従事していた。国共内戦勃発後の1946年(民国35年)4月、中国人民解放軍が長春を占領する。その翌月、 満洲興業銀行総裁・岡田信や満洲鉱業開発理事長・竹内徳亥らと共に徐は人民解放軍に逮捕された[11]。人民解放軍が長春から撤退した際に、徐・岡田・竹内らはジャムス(佳木斯)へ連行され、同年8月中旬、全員が人民裁判にかけられ銃殺刑に処されたとする資料がある[12]。ただし、人民裁判を経て処刑されたのではなく、裁判手続中に徐・岡田・竹内らを奪回しようとした集団が突入してきたため、その混乱の中で当局により手当たり次第に銃殺された、との説もある[13]。いずれにしても、1946年8月にジャムスで徐は死亡したものと考えられている。享年55。 注
参考文献
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