張済新
張 済新(ちょう さいしん)は中華民国の政治家・書家。北京政府に属する。旧名は鼎銘、字は庶詢[3][4]。 事績清の抜貢。1918年(民国7年)、浙江省会稽道尹となり[3][4]、1926年(民国15年)まで務めた[3]。その後、張作霖から大元帥府総務処処長に起用され、併せて張学良の教師になったとされる[2]。1927年(民国16年)9月24日、京兆尹(北京市長に相当)に任ぜられた[5]。なお張済新は、北京政府で最後の京兆尹である[6]。1928年(民国17年)6月3日、張作霖が東北へ逃走する際、これに張済新も随行。張作霖爆殺事件が発生するも、張済新は巻き込まれずに済んだ[2]。 国民政府成立後の1929年(民国18年)、張済新は東北政務委員会総務庁庁長となった[3]。1931年(民国20年)1月31日、山西省政府委員兼財政庁庁長に異動する[7]。5月4日、財政部張多関監督も兼任している[8]。9月18日に満州事変が発生すると、避難民を救済しようと、書家の名声があった張済新は自作を売って義援金にしたという[2]。10月3日に山西省の各職から免ぜられたが[9]、その後も行政院駐北平政務整理委員会委員、華北建設討論委員会委員を歴任している[3][4]。 1940年(民国29年)7月22日、張済新は南京国民政府(汪兆銘政権)で考試院参事に任命されたが[4][10]、同年9月7日に早くも辞任した[10]。国共内戦の終盤、張済新は北平の平和的開城に従事したとされる。中華人民共和国成立後、中央文史研究館館員に招聘された。1952年、死去[2]。 注
参考文献
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