康叔 |
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衛 |
初代伯 |
王朝 |
衛 |
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在位期間 |
紀元前?年 - 紀元前?年 |
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都城 |
朝歌 |
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姓・諱 |
姫封 |
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生年 |
不詳 |
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没年 |
不詳 |
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父 |
文王 |
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母 |
太姒 |
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康叔(こうしゅく、生没年不詳)は、衛の初代君主。文王の九男で武王の同母弟。衛康叔、康叔封とも表記される。
生涯
周の文王の九男として生まれる。
周の武王が崩御し、子の成王が立ったが、まだ幼かったので、弟の周公旦が国政を代行した。しかし、その弟である管叔と蔡叔らは周公旦を疑い、殷の帝辛(紂王)の子である武庚禄父とともに反乱を起こして成周を攻撃しようとした。そこで周公旦は成王の命により出兵して反乱軍を討ち、首謀者である管叔と武庚禄父を誅殺し、蔡叔を放逐した。周公旦は武庚禄父亡き後の殷の民を弟の康叔に委ね、康叔を衛君に封じ、黄河と淇水の間にある故商墟(旧殷の都、のちの朝歌:現在の河南省淇県)に赴任させた。この時、周公旦は康叔がまだ若いのを危惧して、「康誥」・「酒誥」・「梓材」[1]の3つを教え込み、為政者の法則とさせた。
こうして康叔は封国である衛に赴任すると、周公旦の命に従って善政を布いたため、民から慕われることとなった。やがて周の成王も成人となり、国政を行えるようになったので、成王は康叔を周の司寇[2]とし、周王室の宝物を下賜して康叔の有徳を表彰した。
康叔が薨去すると、子の康伯が立った。
『高麗史』によると、高麗王朝の建国者である王建は康叔の子孫である[3][4][5]。
家族
父
同母兄弟
子
脚注
- ^ これらは書経(尚書)に収録されている。
- ^ 司寇(しこう)は司法長官にあたる。
- ^ “신천강씨 信川康氏”. 韓国民族文化大百科事典. https://archive.ph/ANKd3
- ^ “강씨(康氏)의 본관”. rootsinfo. オリジナルの2016年11月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161125064730/http://www.rootsinfo.co.kr/info/roots/view_bon.php?H=%CB%AC&S=%B0%AD
- ^ “김성회의 뿌리를 찾아서”. 世界日報. (2013年4月2日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304201541/http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html
参考資料
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- 康叔?-?
- 康伯?-?
- 孝伯?-?
- 嗣伯?-?
- 寁伯?-?
- 靖伯?-?
- 貞伯?-前867
- 頃侯前866-前855
- 釐侯前855-前813
- 共伯前813
- 武公前812-前758
- 荘公前757-前735
- 桓公前734-前719
- 州吁前719
- 宣公前718-前700
- 恵公前699-前696
- 黔牟前696-前688
- 恵公前688-前669
- 懿公前668-前660
- 戴公前660
- 文公前659-前635
- 成公前634-前600
- 穆公前599-前589
- 定公前588-前577
- 献公前576-前559
- 殤公前558-前547
- 献公前546-前544
- 襄公前543-前535
- 霊公前534-前493
- 出公前492-前480
- 荘公前479-前478
- 衛君起前477
- 出公前476-前470
- 悼公前455-前451
- 敬公前450-前432
- 昭公前431-前426
- 懐公前425-前415
- 慎公前414-前373
- 声公前372-前362
- 成侯前361-前333
- 平侯前332-前325
- 嗣君前324-前283
- 懐君前282-前253
- 元君前252-前230
- 衛君角前229-前209
- 滅亡
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