平賀興貞
平賀 興貞(ひらが おきさだ)は、戦国時代の武将。安芸の国人領主、平賀氏当主。平賀弘保の嫡男。 生涯明応7年(1498年)、安芸国の国人領主である平賀氏当主・平賀弘保の嫡男として生まれる。初めは大内氏に属し、元服時に大内義興の偏諱を受けて興貞と名乗る。 大永3年(1523年)の鏡山城の戦いで大内方の鏡山城が落城すると、同年に父・弘保が防御に優れた頭崎城を築いた。興貞は期待されてこの頭崎城に城主として入ったが、後に大内氏・尼子氏への対応で父・弘保や子の隆宗・新九郎(後の広相)兄弟と意見を異にし、ついには親子で度々争うようになったため、やがて興貞は尼子経久に通じるようになる。 天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就が高屋保へと進出し、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は近隣の篁山山頂付近に竹林寺を再建して出家した。家督は隆宗が継いだ。 参考資料 |