平岡力
平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日[1] - 1980年(昭和55年)8月2日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。 経歴1889年(明治22年)に鹿児島県で生まれた[1]。陸軍士官学校第24期卒業[1]。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に鹿児島連隊区司令官に着任[2][3]。1940年(昭和15年)8月に歩兵第45連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団のち第6歩兵団)に転じ[1][2]、日中戦争に出動[1]。岳州から第一次長沙作戦、第二次長沙作戦などに参加した[1]。 1942年(昭和17年)11月に横浜連隊区司令官に就任し[2]、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級した[3]。1944年(昭和19年)5月22日に近衛第3師団兵務部長に転じ[4]、7月8日に留守近衛第2師団兵務部長と歴任した[5]。1945年(昭和20年)3月18日に編制された独立混成第108旅団(関東軍・第17方面軍・第58軍)[6]の旅団長に3月29日に就任し[1]、終戦時は済州島で米軍の上陸に備えていた[1]。 1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[7]。 脚注参考文献
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