川上仁一
川上 仁一(かわかみ じんいち、1949年 - )は、甲賀流忍術の伴家忍之伝を受け継ぐ武術家、忍術研究家。甲賀流伴党21代目宗家[1]。三重大学社会連携研究センター特任教授(社会連携)や、日本忍者協議会顧問も務める。福井県若狭町生まれ[2]、同町在住[3]。 略歴父は兼業農家、母も農業を手伝っており忍者の家系ではなかったが、6歳頃に20代目の石田正蔵(いしだ まさぞう)と出会ったことで、尾張に伝わった系統の甲賀流忍術の一派である伴家忍之伝を学ぶ。伴家忍之伝に含まれる多くの流派(如水流神道軍伝、出雲神流平法、神伝不動流馗法、竹内流骨法、一条不二法骨法術など)を体得している。 川上は1955年頃、生まれ育った福井県若狭町瓜生にて、雲水(修行僧)のような格好をした石田と出会った[4][5]。石田は眼鏡をかけ、痩せこけた老人だったが、手にした物を素早く精確に投げる姿などに感心し、遊びのつもりで真似をしていたのが始まりだったという[2][6]。その後、師弟関係となって訓練が始まった。 石田は当時おそらく70代で、自宅のあった京都から頻繁に村を訪れて木賃宿に長期滞在し、薬売りなど行商をしながら生活していた[4]。石田家は京都にあったが、その先祖は滋賀県甲賀の武士の家系だった[4]。幕末に「甲賀勤皇隊」が組織されたとき、尾張藩に士官していた甲賀流忍者の家系である伴家をはじめ、各家に伝わっていた忍術を持ち寄り皆で習得し直して体系化したものがあり、これが代々伝えられていた[4]。石田は戦中、ハルビン特務機関にも所属していたという[6][7]。 川上は当初自分が何をやっているか分からず石田から訓練を受けており、最初は泥棒の術だと思いこみ[8]、それが忍術であることを知ったのはずいぶん後のことだった[9]。体のできていない幼少期は呼吸法に始まり、静かに動く歩法や体関節の外し方、視覚や聴覚を研ぎ澄ます訓練など忍術の基礎を学び、成長に伴って薬草や火薬の調合といった専門知識も習得した[2][3]。18歳で石田から宗家の名を継承し「甲賀流伴党21代宗師家」となり、巻物や道具などを授かる[9]。石田からは19歳頃まで忍術を習っていた[4]。 高専に進学すると武術部を創設して友人らと活動し、その後は大手メーカーで技術者として勤務するかたわら鍛錬を続けた[2]。退職後、現在は福井県若狭町にて「神道軍伝研修所」を設け、忍術・武術・兵法などの研究と広報を行なっている[10]。また、三重県伊賀市にある伊賀流忍者博物館の名誉館長も務めている[11]。2012年1月には三重大学社会連携研究センターの社会連携特任教授に就任し、学術的な忍者研究にも携わっている[12]。2015年に日本忍者協議会の顧問に就任[13]。 川上自身は現代において伝統的忍術をやる意味がないと考えており、甲賀流伴党の次代の養成はしていない[2]。 なお、川上が受け継ぎ所蔵していた伴家の古文書などの中に、いわゆる「うつろ舟奇談」に関わる新史料があることが2014年に発見された[14]。 書籍単著
共著
監修
インタビュー
関連番組
脚注
関連項目外部リンク
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