岸 信貞(きし のぶさだ、生年不詳 - 永禄8年8月28日(1565年9月22日))は、戦国時代の武将。通称は三郎兵衛。父・佐藤信連、兄弟に岸信周。子に岸新右衛門。山之上本地岸氏の祖[1]。
生涯
織田信長の中濃攻略戦において、岸一族は堂洞城を守備していたとみられる。
兄信周と共に堂洞城攻城戦に参加。南・西方面を守備し必死の防戦に努めた。兄とその妻(桂院月丘浄香大姉)と共に18度もかけ合う[2]。信周とその妻が自刃した後も本丸にて防戦。
堂洞落城寸前、遂に討死をした[3]。
人物・子孫
- 「城中の人数入り乱れて、敵味方見分けれず、大将の者は皆打果してしまった。」から、激戦であった事がわかる[4]。
- 岸一族が城を枕に義に殉じたと言われている。
- 子の岸新右衛門は、堂洞合戦本丸で戦った森可成より森氏に仕えた[5]。
- 現在も美濃加茂市山之上町本地岸家として続いている[6]。
脚注
- ^ 富加町史通史編 岸氏系譜 202-203頁
- ^ 「西、夕田口と南蜂屋口より織田信長軍丹羽長秀、川尻与兵衛、森可成三千人、北、加治田より佐藤紀伊守軍四隊に分かれて約一千人」[要出典]
- ^ 富加町史通史編 二堂洞合戦 198頁
- ^ 信長公記
- ^ 富加町史通史編 岸氏系譜 203頁、197頁「河尻秀隆・森可成の軍勢は、天守構へ乗り入り、続いて丹羽長秀も本丸に攻め込んだ。」
- ^ 富加町史通史編 206頁
参考文献
関連項目
外部リンク