岸井寿郎
岸井 寿郎(きしい としろう[1]、1891年5月28日 - 1970年10月1日[2] )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父[3]。 来歴・人物香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業[4]。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する[5]。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進[6]。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。1930年(昭和5年)同社政治部長兼印刷局次長に昇進。 1932年(昭和7年)4月19日から5月10日かけて大阪毎日新聞に『連盟を脱退すべし』を連載し国際連盟の無益有害なることを強調し「世界は今渦の如くわき立っている、国内的に、国際的に、目まぐるしく流転を始めている、日本は先ず自己を知れ、周境を知れ、そして退いて自己を守れ、外交的御附合のつもりで危険な連盟に長尻は無用だ、速かに脱退して自己の覚悟に徹底しなければならぬ。」と世論に訴え、日本の国際連盟脱退を躊躇する政界上層部と連盟利用論者を非難[7]。 1933年(昭和8年)同社営業局次長に昇進。創立以来、大アジア協会理事を務める。1934年(昭和9年)1月より6ヶ月間、北米を視察。1937年(昭和12年)大阪毎日新聞社を退社[6]。 1938年(昭和13年)南羽鉱業社長に就任。1941年(昭和16年)同社を退社[6]。1942年(昭和17年)4月に第21回衆議院議員総選挙に郷里の香川県第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬、当選する。1945年(昭和20年)12月まで大蔵省委員、内閣委員として国政に参画した[8]。 その後、公職追放を経て[9]、実業界に入り、日本デリス社長、協和鉱業社長、中央広告通信会長を歴任。1966年(昭和41年)10月から毎週日曜夕刊「東京ポスト」を発行、50万部無料配布を3年6ヶ月間行った[10]。 1970年(昭和45年)10月1日に79歳で没した。 著書脚注
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