岡八朗
岡 八朗(おか はちろう、本名・市岡 輝夫〔いちおか てるお〕、1938年(昭和13年)4月16日 - 2005年(平成17年)7月26日)は、日本の喜劇俳優。2003年(平成15年)4月16日以前の芸名は「岡 八郎」。兵庫県尼崎市出身。長女はゴスペル歌手の市岡裕子。 盟友の花紀京と共に吉本新喜劇の二大巨星と呼ばれ、新喜劇の黄金時代を築いて長きに渡って君臨した。 略伝父は喜劇役者で幼少から芸事に触れる。 1958年(昭和33年)、宝塚映画製作所の大部屋に入るが1年で退社。花菱アチャコに師事、師匠の薦めで1959年(昭和34年)4月に吉本新喜劇へ第1期生として入団。入団当初は本名の「市岡輝夫」のまま吉本新喜劇の前身である吉本ヴァラエティやステレオコントの舞台に上がる。 1960年(昭和35年)4月に漫才に転向し、コンビを解消して一人になっていた浅草四郎とコンビを組むが1968年に四郎が自殺、一時千土地興行に移籍したこともあったが、後吉本興業に戻り役者を諦めきれず復帰して座長に就任。主に花紀京、船場太郎、山田スミ子、原哲男、のちには木村進、間寛平らと共に活躍した。 その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」、「ガオーっ」等の定番ギャグを多数持つ。明石家さんまや間寛平らはこれらの定番ギャグを現在でも使用している。 新喜劇では、昔ながらの大衆食堂の店主、あるいはの工事現場の労働者などの役回りが多く、二枚看板の花紀とは特に息の合ったかけあいを披露して、多くのファンを魅了した。 しかし舞台上での立ち振る舞いとは逆に、実は極度のあがり症で出番前の極度の緊張を紛らわすために多量の飲酒することが多くなり、私生活でも「一にも二にも三にも健康法は酒です」と本人が語る程の酒好きであった。結果的にこれが祟り、長年アルコール依存症を患うこととなった。さらにアルコール依存症の他にも私生活でのトラブルも多く、30歳で結核を患い、1993年(平成5年)には胃癌、1995年(平成7年)には急性膵炎、1996年(平成8年)には自宅で転倒し脳挫傷に[1]、さらに妻の自殺、長男(もアルコール依存症だった)の急死と不幸が続いた。アルコール依存症克服後も娘の裕子に会いに渡米した帰りの機内で飲酒し、これを知った裕子に絶縁を宣言されたこともあった。 脳挫傷の後遺症は記憶障害という喜劇役者としては致命的なダメージを背負うことになり、台詞が覚えられず、以後事実上の引退状態になった。とはいえ岡の舞台に立ちたいという本人の意志は強く、2002年(平成14年)12月18日に芸能生活45周年記念リサイタル「岡八我王(ガオー)伝説」をなんばグランド花月で行った。この公演では弟子のオール阪神・巨人の巨人らとの新喜劇、帰国した裕子との父娘漫才を披露した。 2003年(平成15年)には心機一転、芸名を「岡 八郎」から「岡 八朗」に変えるなど、舞台に対する意欲をみせていたが、2005年(平成17年)7月26日、肺炎による呼吸器不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で死去した。戒名は笑輝院一道禅圓居士。 死去する直前の2005年7月16日には大阪市で開いたオール阪神・巨人の漫才コンビ結成30年記念公演に出演。舞台では阪神・巨人、けんた・ゆうたらの思い出話を披露した。これが最後の舞台であった。 生涯
ギャグ
出演作品テレビ番組
テレビドラマ
映画
ドキュメンタリー
ラジオドラマCM音楽作品
著書
DVD
弟子演じた俳優
脚注出典 |