岑徳広
岑 徳広(しん とくこう)は、中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。字は心叔。チワン族(壮族)。清末民初の政治家である岑春煊の子で、唐紹儀の娘婿でもある。 事跡日本に留学した後、イギリスのシンクタンクで研究員をつとめた。帰国後ワシントン会議中国代表団随員、梧州関監督兼広西省外交特派員、滇桂聯軍総司令部参議、善後会議議員などを歴任している。 1937年(民国26年)に日本軍が上海を占領した頃から、上海に在った岑徳広は周仏海の知恵袋的存在となる[2]。翌年9月28日に、岑は土肥原賢二を伴って義父の唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られるが、まもなく唐は軍統に暗殺された[3]。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、周に従い、岑もこれに参加した。賑務委員会[4]委員長と第1期中央政治委員会延聘委員(以後4期務める)に任ぜられている。以後、清郷委員会委員、時局策進委員会委員、社会部行動指導委員会委員を歴任した。 1943年(民国32年)1月、賑務委員会は社会福利部に統合され、岑は国民政府委員となる。1945年(民国34年)6月、中央政治委員会最高国防会議秘書長に任命された。8月、経理総監部総監となっている。 日本敗北後、岑徳広は漢奸の罪に問われ、9月26日に南京で逮捕されたが[5]、後に香港への逃亡に成功した[6]。これ以降の消息は不詳である。 注参考文献
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