山田福三郎山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日)[1] - 1914年(大正3年)5月18日[2])は、日本の弁護士[3]、特許弁理士[4]、政治家。 経歴埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身[5][注 1]。山田充八の息子[注 2]。熊谷中学校に学ぶ[5]。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する[5]。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する[5]。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業[5]。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる[4]。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する[2]。大日本共同運輸監査役[4]、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる[2]。 人物島田三郎を師と仰いだ[1]。住所は横浜市相生町6丁目[5]。 家族・親族
脚注注釈出典
参考文献
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