山田上ノ山古墳
山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として第36代孝徳天皇の陵に治定されている。 概要大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、二上山から西方に派生する丘陵の先端部に築造された古墳である[1]。丘陵前には竹内街道が通る[1]。江戸時代には「北山陵」と称されたほか[2]、かつては「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」とも称され[1][3][4]、『河内名所図会』では『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」を本古墳に比定する[1][注 1]。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていない。 墳形は円形で、南西方に面する[2]。墳丘は直径32メートルを測り、小規模な円墳になる[1][3]。埋葬施設などは明らかでない[1]。関連出土品として、かつて陪塚から出土したという海獣葡萄鏡が知られるが、その出土地の詳細は明らかでない(現在では陪塚等は知られない)[3][4]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第36代孝徳天皇(654年崩御)の陵に治定されている[2]。7世紀の王陵としては懐疑的な見解もある一方[5]、その小さい墳丘規模に生前の薄葬令の反映を推測する説もある[3]。磯長谷では孝徳天皇陵のほか敏達・用明・推古天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。 被葬者山田上ノ山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第36代孝徳天皇の陵に治定している[6][7][2][8]。孝徳天皇について、『日本書紀』では白雉5年(654年)10月[原 1]に崩御し、同年12月[原 2]に「大坂磯長陵」に葬られたとする[2][5]。『延喜式』諸陵寮[原 3]では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする[2]。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された[2]。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
脚注注釈 原典 出典 参考文献
関連項目外部リンク
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