山川菊栄
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体:山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家である。戦前、戦後を通じて女性運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた[1]。 人物東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ[2]。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。 1918年、論文「母性保護と経済的独立」を「婦人公論」に発表し、論壇での地位を確立した[1]。雑誌「社会主義研究」「前衛」などを創刊した[1]。 日本の婦人運動に初めて批評的、科学的視点を持ち込んだ。多くの評論集は、明晰な分析と鋭い批評眼を示し、日本における女性解放運動の思想的原点と評される[3]。戦後は民主婦人協会を結成、その後婦人少年局長に就任した[1]。 戦前から柳田國男の薫陶を受け、母や故老からの聞き書きや祖父青山延寿の日誌などをもとに、『武家の女性』『覚書 幕末の水戸藩』などの社会史を残した。 経歴父は松江藩士の森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、祖父延寿の死去に伴い、青山家の戸主となり、1906年より青山姓を名乗る[4]。弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたる。大叔父(大叔母の夫)に水戸藩士吉成勇太郎がいる[5]。 東京府立第二高等女学校卒業。 1912年(明治45年)、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。 1915年(大正4年)、堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会を通して社会主義を学ぶ。 1915年〜1916年『青鞜』誌上において伊藤野枝との間に「廃娼論争」を交わし、野枝の上中流階級の女性たちによる慈善的・恩恵活動を欺瞞的とする批判に賛意を表する一方、公娼制度容認を徹底的に批判した[6]。 1918年(大正7年)ころから始まった母性保護論争に参加、社会主義の立場から平塚らいてう・与謝野晶子らの運動を批判[7]。 1921年(大正10年)4月、日本で最初の社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成、同年メーデーに初参加。 1947年(昭和22年)、日本社会党に入党。9月1日、片山内閣のもとで、新設の労働省の初代婦人少年局長に就任した[8]。米国の労働婦人局統計調査資料を、太平洋戦争開戦までの約20年間寄贈を受けて読んでおり、日本でもこうした調査が必要と考えていたことから、「簡単に引き受けた」という[9][10]。地方の出先機関である地方職員室の管理職、主任に女性を登用した。GHQの支持を取り付けつつ、自ら各地に出張して面接を繰り返した。「山川人事」と呼ばれた。[11]。 内務省廃止でポストを失った男性を主任に就けるとの目的もあり、地方労働基準局長から男性ばかりが推薦されるのにあきれ、「地位収入を問題とせず、すて身でとびこんできてくださる優秀な方」を募集するとの「局長の檄文」を執筆した。人選は難航したが、1947年7月下旬に全都道府県で主任の人事が固まった[12]。1951年まで務めた。 1962年(昭和37年)、田中寿美子らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立した[13]。 1974年(昭和49年)、『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞[14]。 1980年(昭和55年)、死去。墓所は倉敷市長連寺山門北側[15]。 没後1981年(昭和56年)、「山川菊栄記念会設立趣意書」によれば、山川菊栄の遺族から寄せられた基金で、女性問題の研究・調査を対象に「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」(山川菊栄賞)を贈呈することになり、その運営のために山川菊栄記念会が設立された[16]。 1990年、生誕100年、没後10年を記念して、「山川菊栄生誕100年を記念する会」主催の連続講座やシンポジウムが開催された。連続講座は1989年12月から1990年5月にかけて4回開催され、中嶌邦、永畑道子、竹中恵美子、鈴木裕子が講師をつとめた[17]。シンポジウムは1990年11月3日に津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス内の津田ホールで開催され、「現代フェミニズムと山川菊栄」のテーマで李順愛、井上輝子、竹中恵美子が話し合い、コーディネーターは駒野陽子がつとめた[18]。 2010年、生誕120年を記念してドキュメンタリー映画「姉妹よ、まずかく疑うことを習え 山川菊栄の思想と活動」の制作が企画された[19]。 山川菊栄文庫1988年11月4日、江ノ島の神奈川県立婦人総合センターに山川菊栄文庫が開設された[1]。菊栄の長男で東京大学名誉教授の山川振作が寄贈した図書、雑誌、写真、色紙、書簡、日記などと同センター婦人図書館の資料によって構成されている[1][20]。同センターの移転・廃止にともない[21]、山川文庫を含めた女性関連資料は2015年2月中旬、横浜市の神奈川県立図書館に移管された[3]。 家族・親族
松江藩士
(もりた ちせ、旧姓青山、1857年-1947年10月20日[22]) 水戸藩儒学者青山延寿の娘[22]。女子師範(現お茶の水女子大学)の第1回入試に首席で合格[23]、第1回卒業生[22]。
旧姓森田、東京府第二高等女学校を経て女子英学塾卒。エスペランティスト
東京大学名誉教授[1] 著書単著
著作集
共編著
翻訳
英訳
関連文献
関連作品映像
舞台小説脚注注釈
脚注
関連項目外部リンク
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