山口重幸
山口 重幸(やまぐち しげゆき、1966年6月24日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(内野手)。 来歴・人物岩倉高ではエースとして活躍。1983年の明治神宮野球大会では、決勝で京都商業高を完封し優勝。翌1984年春の選抜に出場。準々決勝では石田文樹、吉田剛を擁する取手二高、準決勝で大船渡高を降す。決勝では当時新2年生であった桑田真澄・清原和博を擁するPL学園高に1安打完封勝利、優勝を飾った。しかし、同年夏は全国高等学校野球選手権東東京大会4回戦で二松學舍大附高に敗退。高校同期に日本ハムファイターズで活躍した三塁手の森範行がいる。 同年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから6位指名を受け入団。 プロ入り後は内野手に転向するが、なかなか一軍に上がれなかった。1988年には7月半ばに掛布雅之が故障で離脱。その後を受けて三塁手として起用され、初出場初先発を果たす。同年は平田勝男と併用され、20試合に先発出場した。 1989年も遊撃手、一塁手として12試合に先発。その後は外野手も兼ねユーティリティプレイヤーとして起用されるが、打撃面では低迷。 1994年には出場機会がなくなる。 1994年オフに阪神を自由契約になり、テストを受けヤクルトスワローズに移籍。当時の野村克也監督が嫌っていた甲子園優勝投手でいながら、真摯に取り組む姿勢が買われ面談のみで入団が決まる。[1] 1995年は二塁手として5試合に先発出場。また三塁守備に不安のあるヘンスリー・ミューレンが下がった後の守備固めなどで自己最多の77試合に出場し、同年のリーグ優勝と日本一に貢献した[2]。同年のオリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでも、第1戦で三塁の守備固めとして起用されている。 1996年も62試合に出場するが、宮本慎也の遊撃手定着に伴う池山隆寛の三塁手コンバートにより戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退。 1997年から野村監督の要望でヤクルトの打撃投手に転向した(2000年からはスコアラー兼任)。プロで投手経験がないのに打撃投手になった珍しい選手である。2007年8月、『四番、ピッチャー、背番号1』(横尾弘一著)で、その歩みが取り上げられた。2018年よりスコアラー専任になる[3]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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