山口光朔山口 光朔(やまぐち こうさく、1926年10月16日 - 1993年8月20日[1])は、日本の歴史学者。神戸女学院大学名誉教授。 略歴兵庫県神戸市主まれ。神戸YMCAの主事だった山口一郎の長男として生まれた。御影教会で受洗。海軍兵学校在籍中に江田島から原爆投下された広島へ救援に行き二次被爆。 戦後すぐに京都教会に移り、その夏教会のキャンプで妹、鼎(かなえ)が水死。青年会の責任者であった竹中正夫と光朔は遺体を挟んで無言で一夜を過ごした。これが2人の最初の出会いであったという。京都大学大学院在学中に、豪僧といわれた八代斌助日本聖公会総裁主教の次女、洋子と結ばれる。八代主教の桃山学院大学設立を手伝い、主教の死後、神戸女学院大学に移った。 1949年京都大学文学部卒業。ミシガン大学・ワシントン大学[要曖昧さ回避]大学院に留学。桃山学院大学教授、カリフォルニア大学客員教授、ブリッジポート大学客員教授などを歴任。その後、神戸女学院大学教授、学生部長、文学部長、学長、院長代行を経て1992年定年退職、神戸女学院大学名誉教授。 米国ロックフォード大学名誉博士、中国・広州外国語学院顧問教授、インドネシア・フン・ハッタ大学名誉教授。また、オリンピア幼稚園理事長・園長、アジア協会・アジア友の会理事、神戸YMCA理事、トインビー市民の会関西代表などと幅広く活躍。 人物
著書
共著編
翻訳
脚注参考
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