尾鷲神社
尾鷲神社(おわせじんじゃ)は、三重県尾鷲市北浦町12-5にある神社。尾鷲七郷の総鎮守(氏神)であり、例大祭のヤーヤ祭りで知られる。近代社格制度に基づく旧社格は郷社[1]。 祭神
歴史宝永4年(1707年)の宝永地震と安政元年(1854年)の安政南海地震による津波で記録や古文書などが流出しており、尾鷲神社の歴史は判然としない[2]。尾鷲神社自身は古老の伝承に倣って「大宝年間(701年 - 703年)に播磨国広峰山の広峯社より建速須佐之男命を勧請したのが創祀」としている[2]。紀伊続風土記によれば、尾鷲神社は伊勢神宮の神領にあり、遷宮の際には豊受大神宮(外宮)の神職が神事を執り行ったとの記述がある[1]。 寛永12年(1635年)に紀州藩が作成した奥熊野山林御定書には「大宝天王 一楠廻壱丈九尺 廻壱丈八尺 (中略)、右者奥熊野尾鷲組在々之内、寺社境内ニ当時生立御座候楠栢槻私共相改候間、尺廻等如斯ニ御座候。以上」とあり[3]、大楠の幹周りが現在の単位に換算して5.7メートルだったと記録されている[4]。宝永4年(1707年)の宝永地震の際には、地震に伴う津波で尾鷲神社の本殿が流出したが、本殿の脇に立っていた大楠は生き残った[4]。1966年(昭和41年)には腐った大楠の幹の空洞に火が入り、3日間燃え続けたが大楠は無事だった[4]。 2020年から2021年の年越しにかけてはかがり火を焚くのをやめ、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、年越しでの初詣の自粛を求めた[5]。 行事年中行事
例大祭毎年2月1日から5日にかけて行われる例大祭「ヤーヤ祭り」で知られる[6]。起源は諸説あるが、祭り自体は鎌倉時代から始まったが、今のような形になったのは江戸時代からといわれている[6]。 江戸時代の神社の神事は、祭りを取り仕切ってきた宮座の親方衆から、神社の氏子が「祷」を預かる祷屋制へと発展し、多くの地域では宮座のほうは衰退したが、ヤーヤ祭りでは宮座と祷屋制そのままが共存している点で稀有な例とされる[6]。持ち回りの祷務町となった町が大名行列などの行事を担当する[6]。 ヤーヤ祭りは、2月1日の初日午前0時から始まる御扉開きで始まり、午後7時からは在廻りが行われる[6]。その後、2月2日から4日にかけて練りと垢離かきが行われ、最終日の2月5日に道中手踊り、大弓の儀、お獅子の出御が行われる[7]。 このうち神事「垢離掻き(こりかき)」では体を清めるために全裸で川や海に入る慣習があったが、SNSでの拡散などが問題になり、犯罪を発生させる可能性があるとの三重県警察からの指摘や尾鷲警察署からの助言で、2024年度(令和6年度)から水着やふんどしを着用して行うことになった[8]。 文化財県指定文化財
脚注
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