尼子持久尼子 持久(あまご もちひさ、永徳元年(1381年) - 永享9年2月25日(1437年3月31日))は、室町時代の武将。上野介。出雲国守護代[1]で出雲尼子氏の祖。月山富田城主。尼子高久の次男[1]。兄に詮久[1](のりひさ、京極高詮より偏諱を受ける。近江尼子氏の祖。)。子に清定[1]・山中幸久[1]。四郎左衛門尉[1]、上野介[1]、刑部少輔[1]を称したとされる。 永徳元年(1381年)、尼子高久の次男として誕生。『陰徳太平記』によると、明徳3年(1392年)、出雲国守護京極高詮によって守護代に補任されたとあるが、古文書に登場せず、その生涯には不明な点が多い。応永2年(1395年)に月山富田城に入城。元服して「持久」と名乗ったのはこれより間もなくのことであろう(「持」の字は京極持高(高詮の孫)から一字を受けたものと思われる)。永享9年(1437年)2月25日死去、享年56。法号は正雲寺殿久旦持久大居士。墓所は島根県安来市広瀬町菅原にある。 脚注参考文献
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