尹東柱
尹 東柱(ユン・ドンジュ[1]、朝: 윤동주、英: Yun Dong-ju、1917年12月30日[2] - 1945年2月16日)は、中華民国時代の満州出身の朝鮮人の詩人である。朝鮮語で多数の詩を創作し、代表作「故郷の家――満州でうたう」(1936年)を通して心の故郷(南の空のそこ—朝鮮半島を意味)への愛を表現した。[3]福岡刑務所で獄死した。死後に『空と風と星と詩』などの作品が知られるようになった。創氏改名[4]後は「平沼東柱」となり[5][6][7]、以後は中国と日本国籍であった[8][7]。 概要1917年12月30日、満洲の北間島地域である中華民国吉林省延吉県明東村(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市明東村)にて、尹永錫(ユン・ヨンソク、1895-1962年)、金龍(キム・リョン、1891-1948年)の夫妻の間の裕福な家庭の長男として生まれた[9][10][11]。本貫は坡平尹氏[12]。尹東柱の幼名は海煥(해환)であり、のちにこの名を号とした。父方の曽祖父は、咸鏡道の鍾城郡(現在の北朝鮮咸鏡北道清津府)から間島地域に移住した朝鮮人移民である[13]。1900年、祖父である尹夏鉉が明東村に移り住み、一家は1910年頃にキリスト教に入信していた。尹夏鉉は開拓によって小地主となり、地域のキリスト教会の長老であった。また、東柱が生まれた当時、父は明東学校の教員であった1931年に明東学校(明東小学校)を卒業する[11]。 満洲国時代1932年3月に満州国が建国され、龍井を含めた満州地域全土が日本統治下となった。同年4月に龍井にあるキリスト教系学校・恩真中学に入学、一家も龍井に移住した。1935年に同様に日本統治にあった朝鮮半島の平壌のプロテスタント系学校・崇実中学校に編入学するが、崇実中学は神社参拝問題のために1936年に当局によって廃校とされた。東柱は満洲国統治下となっている北間島の龍井に行き、日本人経営の光明学園中学部に編入した[14]。1936年頃より、延吉で発行されていた雑誌『カトリック少年』に、「尹童柱」「尹童舟」などの名義で童詩を発表し始める。1938年、日本人経営の光明学園中等部を卒業した。 その後、京城府(現・ソウル)の延禧専門学校(現代の日本における「専門学校」レベルではなく、戦前の日本における「旧制専門学校」で高等教育機関。現・延世大学校)文科に入学し、在学中に朝鮮語講座を担当していた崔鉉培から朝鮮語を学んでいる[14]。 大学進学前後1940年2月11日~8月10日の「設定創氏」申請受付期間中に尹一家は、一家の氏を「平沼」とすることを希望する創氏届けを提出した[6][7]。この間、朝鮮日報や雑誌『少年』に詩を投稿し、掲載されている。1941年12月、延禧専門学校を卒業した。卒業時に、死後に代表作となる「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』の出版を計画するが、恩師と相談の上で戦時中の時局柄、出版は難しいとの判断した。出版を断念した代わりに、自薦詩集として3部を自主制作した。1部は相談した恩師に、もう1部は友人のチョン・ピョンオクに渡している[15]。 一旦帰郷した東柱は、日本での医学部への進学を要求する父親から猛反対されたものの、自身の望みだった文学部へ進学を決めた[16]。1942年1月に改名届を役所へ提出し、「東柱」の読み仮名を日本の音読みへ法的に変更した[6][7]。東柱は1942年3月に日本に渡り、4月2日に立教大学文学部英文科選科に入学する。その年の夏休みに龍井へ帰省し、秋になると再び日本本土に帰還した[5]。宋夢奎(当時は本土渡航前に申請した創氏改名で「宋村夢奎」)は、同年4月に帝大である京都帝国大学西洋史学科へ進学している。尹も本土帰還後は同年9月に京都に居住地を移した[17]。10月1日に京都大学と同じく京都府内にある同志社大学文学部英文学科選科に編入学する[5]。同志社大学の自由な学風を堪能し、宋夢奎ら友人たちとかなり安定した留学生活を送った[16]。1943年7月初頭に英語英文学専攻のクラスメイトと共に京都の宇治へ遠足に出かけている[5]。 1943年7月10日 、朝鮮独立運動をしていた従兄の宋夢奎が治安維持法違反容疑で逮捕された。同月14日に尹も同容疑で逮捕された。尹の逮捕罪状も「独立運動」だったとされているが、これは尹の逮捕罪状の一部を過大に喧伝されたものである。尹の逮捕罪状は3つあって、その中でも「温厚ではあるが西洋思想が濃厚」というのが主な理由であったと指摘されている[5]。1944年2月22日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、3月31日に尹は京都地方裁判所で、「日本国家が禁止する思想を宣伝・扇動」をした懲役1年以上10年以下の法定刑が適用され、懲役2年の実刑判決を言い渡される。2人は福岡刑務所に収監された。その一年後の1945年2月16日、福岡刑務所で原因不明の死因により獄死した(満27歳没)[18]。 死後の顕彰と論争中国と韓国の間に、尹東柱は何人であるかの論争がある。韓国側は彼は「韓国人」、中国側は「朝鮮族」との立場を取っている[19][20]。 韓国1947年2月13日に、ソウルの京郷新聞に「たやすく書かれた詩」が紹介される。尹東柱との面識はなかったものの同志社の先輩として鄭芝溶が紹介文を書いた。[21]同じ年、ソウルに移住していた弟の尹一柱や友人たちによる追悼会が開かれた。1948年に詩や散文を集めた『空と風と星と詩』(原題《하늘과 바람과 별과 시》、日本語訳題には『天と風と星と詩』もある)がソウルで正音社から刊行され、抒情詩人・民族詩人・抵抗詩人として知られるようになった。1968年には母校延世大学校において、尹東柱が暮らした寄宿舎の前に「尹東柱詩碑」が建立された。 戦後に韓国で詩作が紹介されたことで韓国の民族主義教育に取り入れられ、代表的な「民族詩人」として知られるようになった。2012年頃の大韓民国のアンケートより、95%以上の20代が尹東柱を知っていた[22]。 幼馴染である文益煥牧師は、現在の韓国と日本の関係について、「お互いの国を嫌って心の痛む批判を繰り返している」とし、尹の詩全体について、非常に解釈の難しい詩ばかりであると述べている。特に1940年以降の代表作群はその傾向が強いとし、「単に過去の一民族の悲哀や過ちを告発するにとどまらず、全人類に共通する「人間の罪」を告発し乗り越えようとした」モノと述べている[5]。 韓国側は中国が尹東柱を朝鮮族だとしていることに抗議している[19]。 中国韓国と延辺(中国)との交流が盛んになる1980年代まで、尹東柱の故郷であり多くの朝鮮族が暮らす延辺でも、その存在は知られていなかった。1985年に尹東柱の墓の場所を40年ぶりに確認した大村益夫・早稲田大学教授は、「尹東柱という詩人についても、延辺の文学者たちはまったくその存在を知らず、その作品も知らなかった。東柱の親戚たちも数多く延辺に生活しているが、東柱が韓国で国民的詩人として人々の尊敬を受けているとは夢想だにしなかったようだ」(大村益夫「尹東柱の事跡について」『朝鮮学報』)と記している。 現在は、中国国内の少数民族である朝鮮族出身の愛国詩人との評価を受けて、龍井市にある生家が復元されるなどしている[23]。2016年4月20日に韓国のソウル詩人協会は「中国当局が尹東柱の国籍を中国だと歪曲している」として中国を厳しく非難した[20]。 2020年10月、アメリカの大学に進学する全世界の学生が使用するSATとAPの教科書が、歴史上ほとんどの期間、朝鮮は中国の植民地だったと記述していることがJTBCニュースルームの取材で明らかになったが[24]、JTBCニュースルームによると、百度が運営する百度百科でも、尹東柱や尹奉吉や安重根や金九が朝鮮族と表記されており、尹東柱は国籍も中国になっている[24]。朝鮮族が中国籍を取得したのが1954年であることを勘案すれば、事実関係が間違っており、これらの独立活動家が満洲、上海、吉林省に居住して独立活動を行っていたためとみられるが、この場合、朝鮮の抗日運動が中国の抗日運動の歴史に編入されることになる[24]。
日本一方で、民族主義の象徴としての尹東柱の扱いに疑問を挟む声も存在する。京都大学教授で韓国や東アジアについて専門としている小倉紀蔵は、尹の詩を民族主義的など偏った考えで解釈すること、そしてその解釈を「『正答』であると威圧的かつ声高に主張」したり「『道徳的正答』という暴力的な概念をふりまわして、それ以外の解釈や思考を威圧したり排除」したりすることを不適切だとして、詩の言葉を特定の政治的・道徳的立場に本質化して吸収することは「尹の詩への冒瀆」と厳しく批判している。更に尹の詩には政治的・民族的・イデオロギー的なものは皆無であり、イデオロギーありきで解釈する人々が尹を評価する理由が詩そのものよりも、彼が第二次大戦中に逮捕、独立後の南北と保革対立に巻き込まれずに死亡した事にあると結論づけた[25]。 京都芸術大学(旧・京都造形芸術大学)の高原キャンパス内には尹東柱がかつて生活した下宿跡地があり、2006年に尹東柱の作品『序詩』の詩碑をキャンパス内に建立し、毎年命日に追悼法要を行っている[26]。京都造形芸術大学創設者の徳山詳直は1950年に、朝鮮戦争に反対する運動に身を投じて、爆弾の搬送を阻止しようとして逮捕された。徳山詳直は「尹東柱先生が民族独立の闘いの途上で獄死してから5年後、私の闘いは朝鮮との関連で始まった。そしてこの地に大学を創立し、芸術を通した平和を追求している。」と語った。[27]。2019年、京都造形芸術大学側が主催する詩人尹東柱追悼会及び交流会が、大学のキャンパスの詩碑前で2月15日に開かれた。この日は、理事長の徳山豊や学長の尾池和夫をはじめ、在日韓国・朝鮮人、駐大阪大韓民国総領事館の吳泰奎総領事など関係者ら約80人が参加した[28]。 2010年、立教大の教職員と卒業生による「詩人尹東柱を記念する立教の会」が、立教大学の韓国人留学生向け奨学金「尹東柱国際交流奨学金」を設立した。各学部1人ずつ計8人[29](のちに10人[30])に、留学生が在学中に必要となる年間授業料(48万8000~67万9000円)[29]とほぼ同額の60万円を支給している。 同志社大学は2024年12月、尹東柱に名誉文化博士の学位を送ることとし[31]、没後80年にあたる2025年2月16日に名誉学位贈呈式を行うこととした[32][33]。
家族尹一柱(弟) 作品『空と風と星と詩』は、以下の日本語訳が刊行されている。
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伝記映画
註
参考文献関連項目外部リンク
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