小笠原幹小笠原 幹(おがさわら かん、1826年1月24日〈文政8年12月17日[1]〉 - 1894年〈明治27年〉3月9日[1][2])は、幕末の福井藩士。明治時代の官吏。笠松県知事。宮城県仙台区長。幼名幹吾、のち主殿介[3]。旧姓は牧野[3]。 経歴父は主殿[3]。1845年(弘化2年)家督を相続し、横井小楠に学んだ[3]。大番頭に進み軍制を改革し、農兵隊を組織した[1]。幕末期には一時、田内源介と名乗った[3]。 維新期に入ると内田盛徳と名乗り[4]、1868年(慶応4年5月)笠松県知事に任ぜられるが病により辞し、翌1869年(明治2年)には福井県大参事となり、1871年(明治4年)大蔵省七等出仕、秋田県、1871年(明治4年)11月[4]、入間県各権令[注 1]を経て、1879年(明治12年)7月、宮城県名取郡長、1885年(明治18年)1月に仙台区長に就任し、奏任官に列した[3]。1886年(明治19年)8月、官を辞して東京に移り、1893年(明治26年)8月には姓を牧野に復した[3]。 脚注注釈
出典参考文献
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