小田平集落小田平集落(こだびらしゅうらく)は現在の長崎県長崎市西出津町を指す旧称・郷名で(自治会に名称を残す)、隠れキリシタンが切り拓いた集落の景観を保持しているとして文化財保護法に基づく重要文化的景観「長崎市外海の石積集落景観」の中核を成し、2016年に世界遺産登録審査予定である長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産「出津教会堂と関連遺跡」の一部として旧出津救助院とともに対象となっていたが、国際記念物遺跡会議の「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘により2016年2月9日に閣議了解で長崎の教会群とキリスト教関連遺産の推薦が一旦取り下げられ、7月25日に改めて2018年の審査対象となった(2018年6月30日に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として世界遺産登録が決定[1][2])。この際、それまで構成資産の主体であった出津教会堂と旧出津救助院が禁教明けの明治時代になってから建てられたものであり、再推薦では「外海の出津集落」すなわち小田平集落を主体とし、教会堂と救助院は集落に包括される形式となった。 基本情報小田平は西彼杵半島のほぼ中央、角力灘に面し、大野岳の南に伸びる尾根先端の変岳裾野南斜面海抜0~100メートル付近、出津川西岸側の河岸段丘に立地する。一帯はリアス式海岸のため陸路での接近が難しく、キリシタンが隠れ住むのに適した地の利であった。地質的には地中に結晶片岩(地元では温石と呼ぶ)が埋もれ、火山灰酸性土壌であり、急峻な地形のため土壌流出も起こりやすく農業に不向きな反面、石積みが発展する要因となった。 歴史歴史は古く、出津川河口の海岸には縄文時代・弥生時代の出津遺跡が確認されている[補 1][3]。古代以降の様相は定かでないが、戦国時代には西彼杵半島の大半が大村氏の支配下となり、1563年(永禄6年)に大村純忠が洗礼を受けキリスト教を庇護したことで小田平を含む領民の多くがキリシタンとなった。しかし、1612年(慶長17年)の禁教令により弾圧が始まると多くは五島列島などへと逃れたが[4][5][補 2]、大村藩領の西杵築にあって出津は佐賀藩の飛地(深堀鍋島家領)で追求の手が及びにくかったこともあり、一部は残留し潜伏キリシタンと化した[補 3]。寺請制度により村単位で寺社が設けられたが小田平には現在に至るまで寺社は存在しない。出津の人々は表向き下黒崎町の柏木神社の氏子と樫山町の天福寺(曹洞宗)の檀家となり、天福寺はキリシタンであることを承知で受け入れ、本堂の本尊脇侍にマリア観音を安置したことから、「寺付き派」と呼ばれる集団となった[補 4]。また、樫山の赤岳という山を聖地とした(これは平戸の安満岳信仰に共通する)[6]。 石積み集落は畑作・林業が主体の「上」と、漁業が主体の「下(浜口)」で構成されていた。独特の景観である石積みがいつ頃発生したか明らかではないが、元々は獣害避けのしし垣から始まったと考えられ[補 9]、遅くとも17世紀には確立したとされる。石積みの発展は大きく四つの段階に分けられ、Ⅰ期は江戸時代の景観形成~完成期、Ⅱ期は明治時代のド・ロ神父入植による西洋技術導入期、Ⅲ期は戦前までの近代化期、Ⅳ期は戦後(特に高度経済成長以降)の現代化期となる。[10] 産業西出津では現在でも稲作は行われておらず[補 10]、畑作と林業・漁業が営まれている。大村藩下で記された『郷村記』『見聞集』によると、外海の石積み畑で作られていた農作物はサツマイモを主体にムギ・ソバ・大豆と野菜類などで、これは今日でも変わりないが、近年は西洋野菜や果樹も生産されている。ド・ロ神父は茶や小麦の栽培も奨励した[補 11][補 12]。外海町が県庁所在地である長崎市に編入されたことで、出津の畑は都市計画上の生産緑地地区に指定されている。 風景脚注補注
参照
関連項目外部リンク
座標: 北緯32度50分38.13秒 東経129度42分03.31秒 / 北緯32.8439250度 東経129.7009194度 |