小池千枝
小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日[1] - 2014年5月28日[1][3])は、日本の教育者、ファッションデザイナー育成者。文化服装学院名誉学院長、文化服装学院10代目学院長、文化女子大学教授、勲四等瑞宝章[1]。 経歴・人物長野県須坂市出身[1]。旧姓は花園[1]。文化裁縫女学校(現:文化服装学院)卒業[1]。 経歴1916年4月14日に長野県須坂市で米穀商を営む父:花園亀(ヒサシ)、母:咲(さく)の第二子長女として生まれる[1]。1933年、須坂高等女学校(現:須坂東高等学校)を卒業後、文化裁縫女学校(現:文化服装学院)本科に入学[1]。1934年に研究科に進み、1935年に研究科卒業と同時に学院に残り教員の道を選び、助手として最年少19歳の「先生」となる[1]。1940年、商社勤務の長野市出身の男性と結婚し北京へ転勤となるが、1944年に夫が軍に召集され、2人の娘を連れて帰国[1]。1945年、夫が沖縄戦で戦死[1]。同年、文化服装学院の誘いによりに学院に復帰し、単身東京へ[1]。1951年にデザイン科を新設し初代デザイン科長に就任[1]。 1954年、38歳のとき母親に娘2人を預けて単身渡仏、南回りの船で1ヶ月かかってパリに留学した[1]。途中エジプトにて民俗人形コレクション第1号となる人形を購入[1]。パリ・クチュール組合学校「サンディカ」で学ぶ[1]。クラスメイトにイヴ・サン=ローランが、隣のクラスには、カール・ラガーフェルドがいた[1]。フランスではオートクチュールの立体裁断に衝撃を受ける[1]。翌年、フランス製の人台(ボディー、トルソー)1体を抱えて帰国[1]。 帰国後は、日本人体型に合う立体裁断用の人台(ボディー、トルソー)を開発し、また1957年から文化服装学院として男子学生の入学を開始する[1]など、ファッション業界の発展に貢献する。 1960年、文化女子短期大学助教授に就任[1]。1964年、文化女子大学家政学部助教授に就任[1]。1965年、文化女子大学家政学部教授、文化女子大学短期大学部教授に就任[1]。1976年、文化服装学院副学長に就任[1]。1983年、文化服装学院10代目学院長に就任[1]。1985年、専修学校教育功労者文部大臣賞を受賞[1]。1989年、財団法人衣服研究振興会第10回「服飾文化賞」を受賞[1]。1990年より同学院の名誉学院長として2002年まで活躍した[1]。1993年、勲四等瑞宝章を受章[1]。 その後1994年、故郷・須坂市に世界90ヵ国の民俗人形コレクション1,200体を寄贈した[1]。1997年に須坂市に開館した「小池千枝コレクション・世界の民俗人形博物館」に現在収められており、同年、世界の民俗人形博物館名誉館長に就任[1]。 次女は陶芸家の小池頌子[4]、その夫は同じく陶芸家の川崎毅。 2014年5月28日、老衰により死去[1][3]。98歳没[1][3]。 評価文化服装学院では、高田賢三、山本耀司などの日本を代表する世界的に著名なパリコレデザイナーを育成し、日本のファッション業界を世界的レベルに押し上げた[2]。その実績から日本ファッション界のゴッドマザー[2][4]と呼ばれ、日本以外でもマダム・コイケ[2]として有名。国内でもファッション界にとどまらず、財界人・学者・芸術家・建築家との交流も多く文化服装学院名誉学院長退任後も、各界と交流し、自宅で小池塾を開き、ファッションを通じ、物の見方や考え方などを指導した[2]。 20年目を迎えた「小池千枝コレクション・世界の民俗人形博物館」の式典では、民族人形1,200体を寄贈したことに対し教え子の一人のコシノヒロコは「小池先生との思い出は数限りなく、思慕の念、感謝の気持ちでいっぱい。人形はファッションの縮図で、世界の人形がこれだけそろっているのは素晴らしいこと。これからも大事にしてほしい」と述べ、また、小池千枝氏の次女は「展示を拝見して、文化服装学院はすごい人たちを生み出したものだと、つくづく思った。素晴らしい企画で、須坂の皆さんに感謝したい。母が98歳まで生きたのは(教え子の)皆さんの活躍があればこそで、母は良い時代を生きたと感じる」などと述べた[4]。 受賞歴著書
脚注
参考文献
外部リンク
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