小山益太小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である[1][2]。号は楽山園[2]。 経歴・人物備前の赤磐郡稗田村に生まれる[2][3]。幼少時に漢学を学び[2]、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた[2][3]。その後園芸栽培の活動を始め[1][2]、同地で生産されるモモやナシ[1][2]、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる[2][3]。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために[1][2]、殺虫剤の研究開発にも携わった[2][3]。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり[2]、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された[1][2]。その後も果実の販売向上のために市場の開業や[2][3]、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった[2]。 脚注外部リンク
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