小原重哉小原 重哉(おはら しげや[1][2] / しげちか[3]、1834年9月11日(天保5年8月9日)[4][注釈 1] - 1902年(明治35年)5月28日[1][注釈 2])は、日本の司法官僚、内務官僚。貴族院勅選議員。初名は澄太郎[4]、号は米華[1]。 経歴岡山藩の人。藤本鉄石・岡元太郎らと交わって、尊王攘夷運動に投じた。1864年(元治元年)、岡元太郎らとともに新選組の密偵松山幾之助を斬殺して梟首した。この一件で獄に下されるが、間もなく赦免された。 明治維新後、慶応4年9月5日(1868年10月20日)、新政府の刑法官に出仕し鞠獄司吟味掛となる[4]。その後、司法省判事となり、監獄制度改良に貢献した。監獄が内務省に移管されると、内務省監獄局次長に就任した。 1890年(明治23年)に元老院議官に就任したが、同年の元老院廃止に伴い、1891年(明治24年)12月22日に貴族院議員に勅選された[5]。墓所は染井霊園。 画を好み、松田翠崖に師事。絵画共進会や内国勧業博覧会で審査員を務めた。 栄典
脚注注釈出典参考文献
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