寺田生家
寺田生家(てらだ なりいえ)は、戦国時代から安土桃山時代かけての武将。寺田又右衛門の称でも知られる。 経歴和泉国和泉郡寺田村の国人である寺田知正の長男。松浦安大夫(宗清)は弟。寺田村を領す。 最初、松浦肥前守(光)の家臣だったが、将軍足利義昭を追放した頃ぐらいから織田信長に仕える[1]。元亀年間は岸和田城主であった形跡がある[1]。 天正4年(1576年)7月9日、和泉衆の沼間任世・生家・宗清は、信長により大坂付近の作毛刈取り(所謂、青田刈り)を命じられている[1]。同月13日の第一次木津川口の戦いに参加したが、敗れた[1]。この頃より佐久間信盛の与力とされ、同6年(1578年)8月14日、信盛の命令で信長出陣のための用木・船などを準備している[1]。同8年(1580年)8月の佐久間父子追放の後は、どこの所属になったか明らかではない。 天正9年(1581年)の馬揃えでは、1月23日の時点では和泉衆の1人に挙げられており、和泉衆を率いた蜂屋頼隆の与力とされていたのかもしれないが、紀伊方面を担当した織田信張の配下として、天正10年(1582年)1月の土橋攻めに参加し、泉職坊[2]を討ったので、あるいは信張の与力であったのか[1]。 天正10年6月の本能寺の変以後は、羽柴秀吉に仕え、天正11年(1583年)からは中村一氏の与力。天正13年(1585年)の雑賀攻めで戦功があった[1][3]。しかし同年の四国の役で羽柴秀長の配下で阿波国へ出陣して、7月、一宮城[4]の戦いで討死した[3]。 脚注参考文献
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