寺島秋介寺島 秋介(てらしま あきすけ[1] / てらじま あきすけ[2] / てらじま しゅうすけ[3]、1842年11月17日(天保13年10月15日[4][注 1])- 1910年(明治43年)7月30日[3][注 2])は、幕末の長州藩士、明治期の官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・直方、通称・秀之助[2]。 経歴周防国熊毛郡原村(現周南市)で長州藩士・寺島太次郎直一、沢夫妻の長男として生まれる[2]。下関戦争、禁門の変に参加した[2]。 慶応4年1月12日(1868年2月6日)浪華隊隊長に就任[4]。同年2月27日(3月20日)東征大総督・有栖川宮熾仁親王の副参謀を命ぜられ江戸に下り、上野戦争では団子坂口の諸藩兵の総指揮を担当した[2][4]。同年7月2日(8月19日)奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀に任じられ奥州を転戦し、明治元年11月1日(1868年12月14日)京都に帰還した[2][4]。明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄450石を永世下賜された[4]。同年12月(1870年)諸隊脱走兵反乱に際して木戸孝允に随行し、その対応を行う[4]。 明治4年12月24日(1872年2月2日)外務八等出仕となり、以後、司法省警保寮十等出仕、警視庁権大警部、大警部、権少警視、内務省警視局一等警部などを歴任[4]。1877年に勃発した西南戦争においては警視隊の編成に従事し、同年6月30日、陸軍大尉兼一等大警部・新撰旅団付となる[2][4]。同年11月2日、兼大警部となる[4]。以後、兼一等警視補、兼権少警視、兼警視庁三等警視、兼内務権少書記官、内務少書記官、地理局第一部長、社寺局次長、造神宮副使代理、臨時全国宝物取調掛などを務めた[4]。 1890年6月12日、元老院議官に就任し、同年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[5]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[6]、死去するまで在任した[3]。 栄典
親族脚注注釈出典参考文献
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