富永謙吾
冨永 謙吾(富永 謙吾、とみなが けんご、1905年(明治38年)8月14日 - 1996年(平成8年)12月3日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中佐。筆名=四方 知明[1]。 経歴医師・富永吉太郎の四男として長崎県で生まれる。大正12(1923)年海軍兵学校に入り、昭和2(1927)年海軍少尉に任官。以後、海軍水雷学校講習員、同高等科学生、駆逐艦「夕立」「望月」水雷長兼分隊長、横須賀鎮守府副官兼参謀、海軍軍事普及部委員などを経て、昭和15(1940)年、大本営軍事報道部員となる。以後、大本営海軍報道部員兼海軍参謀を昭和19(1944)年まで務め、パラオ島で敗戦。昭和21(1946)年に海軍中佐で予備役編入。戦後、公職追放を経て[2]、防衛庁戦史室(現防衛研究所)に編纂官として務め、太平洋戦史を研究。 戦時中に執筆した「米国への判決」(1943年)や「大本営発表海軍篇」(1952年)等、大本営発表と内外の資料を対比させる手法で真実を示した。更に1954年「証言記録太平洋戦争史」(訳編)、1970年「大本営発表の真相史」などを発表、当時流行の暴露や懺悔の手法を避けた。また「ニミッツの太平洋海戦史」(共訳)など多くの戦史資料を訳出した[3]。 家族親族
著書・訳書
児童向け出版
脚注 |