富家宏泰
富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年7月1日 - 2007年12月21日)は、戦後日本を代表する建築家。香川県生まれ[1]。 来歴・人物1919年7月、香川県に生まれて間もなく、一家は朝鮮半島へと移住した。しかし、富家の幼少時、外地でまん延したチフスが原因で一家は子供を除いて全滅してしまった[2]。引き揚げた富家は京都下鴨にある親族の家庭に引き取られて育った[2]。その後、京都府立第一中学校(1937年卒業)[3]、第三高等学校(理科甲類、1942年卒業)を経て京都帝国大学建築学部(現・京都大学工学部建築学科)へ進学した。入学後ほどなく徴兵され北満州への従軍を余儀なくされたものの、終戦後は復学して建築学科を卒業。卒業後は同大学大学院(1948年卒業)を経て、棚橋諒研究室の講師に就任し[4]、京都学芸大学で講師もつとめた[5]。京大時代は棚橋諒のほか、森田慶一らにも学んだ[2] [6] [7]。 1952年10月、京都大学講師を辞し「富家一級建築士事務所」を立ち上げた[5]。事務所は評判を呼び、意匠や計画のみならず、設備・構造等の専任職員を含め、総員約300名を抱えるまでに発展した。その後、バブル経済の破綻とともに事務所は解散したが、富家自身は建築家として活動を続けた。富家は、戦後京都における建築物(大学、図書館、美術館、オフィスビルなど)のほとんどを手掛けたとも評される。また、三重県、石川県、千葉県を中心に全国の美術館やスタジアムなどの設計も担当し、生涯で設計した建築物の数2000点以上に及ぶ[1]。1957年、日本赤十字社金色有功章を受章。1958年、紺授勲章を受章。 また、日本建築家協会副会長、同協会関西支部長、京都府建築士試験委員、京都府建築工事紛争審査委員への就任や、京都建築設設計監理協会の設立等、建築界の後進育成にも尽力し、その活躍は建築実務だけにとどまらなかった。 富家建築事務所の沿革
建築家としての評価
富家モダニズムの作風富家作品の多くは、建物としての自己主張が控えめで、いわゆる「モダニズム建築」の基本的要素から逸脱することは少ないと評価する向きが多い。とりわけ初期の作品は、建築としてのモダニズムの「あるべき姿」に忠実なデザインが多い。例えば、1959年(昭和34年)竣工の彌榮自動車株式会社本社社屋(京都市下京区中堂寺櫛笥町)には、「バウハウス芸術運動」の発信基地でもある「デッサウ校」(バウハウス・デッサウ財団)の外観を彷彿とさせる、いわゆる「モダニズム建築」のお手本のようなデザイン性を見て取ることができる。しかし、1962年竣工の立命館大学・広小路学舎の「恒心館」(現存せず)、1963年の「石川県立図書館」(旧館)、「京都商工会議所ビル」などでは、日本建築に古くから用いられてきた格子を金属で表現して壁面に設置するなど日本らしさ、京都らしさが意識される独自の作品に仕上がっている。事実、富家が「恒心館」のファサード部分に京町家の格子を思わせるデザインを採用したことを指して、「表現としての金属格子の可能性」を探ったのではないかと示唆する声もある[11]。さらに、1965年に竣工した立命館大学・衣笠キャンパスの「以学館」では、モダニズムの教条主義的な要素 --- すなわち左右対称性は好まず、かつ、塔の設置などシンボリックな要素を排除した抽象的な形態建築 --- からの逸脱を試みている。実際「以学館」で富家は、ガラス張りの巨大な階段塔を建物前面に配置するとともに、塔の東西に、あたかも鳥が羽を広げたかのように階段教室(ホール)を左右対称となるよう設置し、またコンクリート打ち放しの壁面には京の伝統的な焼き物である「泰山タイル」を貼ることで、モダン建築と京の風景との親和性を求めるなど、モダニズム建築に軸足を置きつつもシンボリックなデザイン性が前面に出た外観の実現に成功している。こうした試みは1967年作品の「カトリック河原町教会」のシンボリックな大屋根の形にも見てとれる。以上のように、特に60年代以降の富家作品には、教条主義的な「モダニズム建築」が新しい形態を模索しようとする過渡期の姿をみることができる。 京都府内における主な作品
石川県内における主な作品[12]石川県ではかつて知事であった中西陽一が同じ京都大学出身である縁で、30施設を設計した[1]。1973年(昭和48年)には、 石川県金沢市片町に富家建築事務所の支所を開設している[11]。
など その他の主な作品千葉県内
神奈川県
埼玉県内
茨城県
栃木県内
三重県内
大阪府内
兵庫県内和歌山県内
立命館大学・衣笠キャンパスと富家建築
回顧展
参考文献
脚注
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