寂念

 
寂念 / 藤原為業
時代 平安時代後期
生誕 永久2年(1114年)頃[1]
死没 不詳
改名 為業→寂念
別名 通称:伊賀入道
官位 従五位上皇后宮大進
主君 崇徳天皇近衛天皇藤原呈子)→後白河天皇
氏族 藤原北家長良
父母 父:藤原為忠
母:橘大夫の娘(待賢門院女房)
兄弟 為盛寂念為経頼業、兼豪、忠宴、昌忠、藤原光房室、藤原俊成室、平忠盛室?
為賢業盛経業雅業、寛忠、範玄二条院三河内侍
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寂念(じゃくねん)は、平安時代後期の貴族歌人。俗名は藤原 為業(ふじわら の ためなり)。藤原北家長良流、丹後守藤原為忠の次男。官位従五位上皇后宮大進。通称は伊賀入道

経歴

文章生から鳥羽院政期初頭の大治4年(1129年少内記に任ぜられ、崇徳天皇六位蔵人も務める。伊豆守伊賀守を歴任後、仁平元年(1141年)より中宮権大進皇后宮大進として、近衛天皇の中宮(のち皇后)藤原呈子に仕えた。

保元3年(1158年)頃に出家し東山の霊山に隠棲する[2]。法名を寂念と称し、同じく出家した兄弟の寂超寂然と共に大原三寂常盤三寂と呼ばれた。寂超・寂然は主に大原に閑居したが、寂念が大原に住んだかどうかは明らかでなく、主に常磐にいたと想定される[3]

若い頃より父・藤原為忠が主催する歌合に度々参加し、九条兼実藤原重家俊恵源頼政平忠度等とも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。寿永元年(1182年)に作られた『一品経和歌懐紙』の作者とされ、死去したのはそれ以後とされている。なお、文治3年(1187年)子の範玄が季御読経を重喪を理由に辞退しており[4]、これを範玄の親すなわち寂念の死による喪とする説もある[5]

人物

弟2人よりも後世の評価は低いとされるものの、当時を代表する歌人として知られ、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に6首が入集。落ち着きのある歌風で知られた。

官歴

系譜

脚注

  1. ^ 井上宗雄「常磐三寂年譜考」『平安後期歌人伝の研究』笠間書院、1978年
  2. ^ 『宝物集』
  3. ^ a b 井上[1960: 106]
  4. ^ 『玉葉』文治3年3月22日条
  5. ^ 『後白河院時代歌人伝の研究』314頁
  6. ^ a b 『中右記』
  7. ^ 『宇槐雑抄』
  8. ^ 『本朝世紀』
  9. ^ a b c 『兵範記』

出典

  • 井上宗雄「常磐三寂年譜考」『国文学研究 21』早稲田大学国文学会、1960年
  • 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7