宮水神社(みやみずじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡日之影町に鎮座する神社[1][2][3]。
概要
宮崎県の郷社宮水神社(みやみずじんじゃ)は、1872年(明治4年)に三毛入野命(大神姓高千穂氏の祖)に由来する小社など複数を合祀した神社。安土桃山時代に当地を治めていた三田井親武(高千穂太郎政次の子孫)との関係も深い[4]。
歴史
雨社水神
里人、三毛入野命を尊崇し楠の木の傍に小社を建て「雨社水神」と称して祭祀する[4]。
北山大明神
親武大明神
郷社宮水神社
- 1872年(明治4年)12月官達により、袴谷に鎮座していた北山大明神を宮水にうつして合祀され郷社・宮水神社と改称する。
- 1882年(明治15年)8月、周辺数社を更に合祀[注釈 8]。
最近の話題
アニメ作品に出てくる宮水神社
現地案内板全文
現地案内板より
宮水神社(通称親武さん)
建立の由来
天正十九年当時延岡城主、高橋元種
は、何としても西臼杵地方を手に入れ
たかった。しかし、そのためには、
西臼杵地方をおさめていた三田井親武
をどうしても討たねばならなかった。
そこで元種は、親武の家来、甲斐宗
摂(当時中崎城主)に謀反を起させ、九
月二七日真夜中仲山城(現在の向山〔ママ?〕
にて、三田井親武を討ちとらせた。
宗摂に討ちとられた親武の首(頭)
は、二九日舟の尾へ送られたが、家来
の者が首を持って宮水までくると、首
が重くなり、歩くこともできなくたっ
たので、このことを本陣へ注進したと
ころ、不思議なことであると宮水で首
実検が行われた。首実検の終わった親
武の首は、このあたりの住民がもらい
受け、泣く泣く近くの森に葬った。
その後、享和三年(一八〇三年)三
田井の支族、興梠権兵衛重綱、庄屋
甲斐又兵衛、中村忠兵衛等相協議し、
宮水の首塚に石碑を建立した。
安政二年四月、中村忠兵衛の曾孫、
中村寅五郎が主催して高千穂十八カ村
の庄屋に働きかけて寄附を集め、三田
井親武を祀る親武大明神の神社(宮水
神社)を建立した。宗霊八幡大明神〔ママ〕
明治十五年八月、北山大明神、稲荷
大明神、雨社大明神、金毘羅大明神、
逆巻大明神、天満宮(天神様)を合祀
し現在に至っている。愛宕地蔵菩薩〔ママ〕
— 宮水神社 昭和五三年四月 、『社殿正面の案内板』
三田井親武公首塚
天正十九年(一五九一)延岡城主
高橋元種が高千穂郷の領主三田井親
武を攻めた。その折り三田井家の重
臣甲斐宗攝は元種に唆され主君の親
武公を討った。首実検のため元種の
本陣舟の尾に運ぶ途中、宮水まで来
たところ急に首が重くなり運搬の武
士が動けなくなって元種が本陣より
出向いて首実検をすました。
首実検の後、そのままに放置されて
いた親武公の首を村人たちが哀れに
思い埋葬して山石を建て首塚とし供
養した。(日州古今治乱記)
— 日之影町教育委員会 平成十五年三月三十日 、『首塚の現地案内板』
雨社天満宮
宮崎神社御由緒
傳説雨社と言う社祀は神武天皇の皇兄
「三毛入野命」〔ママ〕が「鬼八」退治の途中俄雨に会われた
時、路傍にあった楠〔ママ〕の木の洞に休息され、
雨が止んで再び出発される時記念として自然石
二個を安置された。里人はこの石を神体として
「三毛入野命」を尊崇し、楠木の傍に小社を
建て「雨社水神」を稱して祭祀した。この小祀
は、明治初年「宮水神社」に合祀されたが、
御神体の自然石は今も存在している。
また、袴谷とは「三毛入野尊」〔ママ〕が俄雨で
袴の裾に付いた泥を洗った所という。里人は
そこに樟〔ママ〕を植え「大山祗神」を祭祀した
が安政二年「宮水神社」に合祀されたと云う。
— 『雨社の現地案内板』
脚注
注釈
- ^ 「袴谷とは「三毛入野尊」が俄雨で袴の裾に付いた泥を洗った所という。里人はそこに樟を植え「大山祗神」を奉祀した」[4]
- ^ 「祭神は大山祗神ニシテ天正十五年十一月十五日勧請シ」
- ^ 「文禄元年九月」
- ^ 「親武の首級を検す。後、里民之を林中に葬り、称して御塚と云う」
- ^ 現地案内板には享和3年とある[4]。
- ^ 「享和二年、三田井氏の支族興梠權兵衛重綱、中村忠兵衛、七折庄甲斐又兵衛等、相寄りて厚く親武の為に法事を營めり。」
- ^ 「安政二年四月、中村忠兵衛の曾孫、中村寅五郎が主催して(中略)親武大明神の神社を建立した。」[4]
- ^ 「明治十五年八月、北山大明神、稲荷大明神、雨社大明神、金毘羅大明神、逆巻大明神、天満宮(天神様)を合祀し、」「宗霊八幡大明神」「愛宕地蔵菩薩」[4]
出典
参考文献