宣府巡撫 (仮名:せんふ じゅんぶ,拼音:Xuānfǔ xúnfǔ) は、明前期から清初期にかけて存在した巡撫。
明代
正式名称は「巡撫宣府地方贊理軍務」。正統元年 (1436)、都御史に塞北の巡邏を命じたことがきっかけとなり、巡撫を設置した。設置当初は宣府と大同府を併せて管轄したが、景泰2年 (1451) になると大同巡撫が分離し、後に再び統合されたものの、成化10年 (1474) に再分設。同14年 (1478) 以降は賛理軍務を兼務した。[1]
序次
|
姓名
|
着任年月
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解任年月
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1
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李儀
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正統元年 (1436)
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正統2年 (1437)
|
2
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盧睿
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正統2年(1437) 3月[2]
|
正統5年(1440) 4月[3]
|
3
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羅亨信
|
正統5年 (1440)
|
景泰元年(1450) 正月[4]
|
4
|
任寧
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景泰元年 (1450)
|
景泰2年 (1451)
|
5
|
劉璉
|
景泰2年 (1451)
|
景泰2年 (1452)
|
6
|
李秉
|
景泰2年 (1452)
|
天順元年 (1457)
|
7
|
王宇
|
天順2年 (1458)
|
天順4年 (1460)
|
8
|
韓雍
|
天順4年 (1460)
|
天順6年 (1462)
|
9
|
李匡
|
天順6年 (1462)
|
天順8年 (1464)
|
10
|
李秉
|
天順8年 (1464)
|
天順8年 (1464)
|
11
|
葉盛
|
天順8年 (1464)
|
成化3年 (1467)
|
12
|
王越
|
成化3年 (1467)
|
成化4年 (1468)
|
13
|
鄭寧
|
成化4年(1468) 4月[5]
|
成化7年(1471) 10月[6]
|
14
|
林聡
|
成化7年(1471) 10月[6]
|
成化8年 (1472)
|
15
|
鄭寧
|
成化8年(1472) 5月[7]
|
成化9年(1473) 8月[8]
|
16
|
殷謙
|
成化9年(1473) 8月[8]
|
成化14年 (1478)
|
17
|
張頤
|
成化14年 (1478)
|
成化16年 (1480)
|
18
|
郭鏜
|
成化16年 (1480)
|
成化17年 (1481)
|
19
|
秦紘
|
成化17年 (1481)
|
成化20年 (1484)
|
20
|
李岳
|
成化20年 (1484)
|
成化23年 (1487)
|
21
|
張錦
|
成化23年 (1487)
|
弘治元年 (1488)
|
22
|
李介
|
弘治元年 (1488)
|
弘治2年 (1489)
|
23
|
王継
|
弘治2年 (1489)
|
弘治2年 (1489)
|
24
|
強珍
|
弘治2年 (1489)
|
弘治3年 (1490)
|
25
|
楊謐
|
弘治3年 (1490)
|
弘治7年 (1494)
|
26
|
陳紀
|
弘治7年 (1494)
|
弘治9年 (1496)
|
27
|
馬中錫
|
弘治9年 (1496)
|
弘治12年 (1499)
|
28
|
雍泰
|
弘治12年 (1499)
|
弘治14年 (1501)
|
29
|
張縉
|
弘治14年(1501) 4月[9]
|
弘治14年(1501) 11月[10]
|
30
|
劉聡
|
弘治14年 (1501)
|
弘治16年 (1503)
|
31
|
李進
|
弘治16年 (1503)
|
弘治18年 (1505)
|
32
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張鼐
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弘治18年 (1505)
|
正徳元年 (1506)
|
33
|
車霆
|
正徳元年 (1506)
|
正徳2年 (1507)
|
34
|
劉璟
|
正徳2年 (1507)
|
正徳2年 (1507)
|
35
|
鄧璋
|
正徳3年 (1508)
|
正徳3年 (1508)
|
36
|
陸完
|
正徳3年 (1508)
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正徳4年 (1509)
|
37
|
馬炳然
|
正徳4年 (1509)
|
正徳4年 (1509)
|
38
|
楊綸
|
正徳4年 (1509)
|
正徳5年 (1510)
|
39
|
楊武
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正徳5年 (1510)
|
正徳5年 (1510)
|
40
|
夏景和
|
正徳5年 (1510)
|
正徳5年 (1510)
|
41
|
周南
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正徳5年 (1510)
|
正徳5年 (1510)
|
42
|
燕忠
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正徳6年 (1511)
|
正徳6年 (1511)
|
43
|
趙璜
|
正徳6年 (1511)
|
正徳7年 (1512)
|
44
|
王雲鳳
|
正徳7年 (1512)
|
正徳8年 (1513)
|
45
|
孟春
|
正徳8年 (1513)
|
正徳9年 (1514)
|
46
|
張檜
|
正徳9年 (1514)
|
正徳10年 (1515)
|
47
|
王純
|
正徳10年 (1515)
|
正徳11年 (1516)
|
48
|
劉達
|
正徳11年 (1516)
|
正徳14年 (1519)
|
49
|
寧杲
|
正徳14年 (1519)
|
正徳16年 (1521)
|
50
|
李鐸
|
正徳16年 (1521)
|
嘉靖3年 (1524)
|
51
|
寇天叙
|
嘉靖3年 (1524)
|
嘉靖3年 (1524)
|
52
|
張縉
|
嘉靖3年 (1524)
|
嘉靖4年 (1525)
|
53
|
周金
|
嘉靖4年 (1525)
|
嘉靖6年 (1527)
|
54
|
劉源清
|
嘉靖6年 (1527)
|
嘉靖12年 (1533)
|
55
|
韓邦奇
|
嘉靖12年 (1533)
|
嘉靖13年 (1534)
|
56
|
路迎
|
嘉靖13年 (1534)
|
嘉靖15年 (1536)
|
57
|
郭登庸
|
嘉靖15年 (1536)
|
嘉靖18年 (1539)
|
58
|
楚書
|
嘉靖18年 (1539)
|
嘉靖21年 (1542)
|
59
|
王儀
|
嘉靖21年 (1542)
|
嘉靖24年 (1545)
|
60
|
孫錦
|
嘉靖24年(1545) 3月[11]
|
嘉靖28年 (1549)
|
61
|
李仁
|
嘉靖28年 (1549)
|
嘉靖28年 (1549)
|
62
|
郭宗皋
|
嘉靖28年 (1549)
|
嘉靖28年 (1549)
|
63
|
李良
|
嘉靖28年 (1549)
|
嘉靖29年 (1550)
|
64
|
劉璽
|
嘉靖29年 (1550)
|
嘉靖32年 (1553)
|
65
|
劉廷臣
|
嘉靖32年 (1553)
|
嘉靖34年 (1555)
|
66
|
張渙
|
嘉靖34年 (1555)
|
嘉靖36年 (1557)
|
67
|
張鎬
|
嘉靖36年 (1557)
|
嘉靖37年 (1558)
|
68
|
何思
|
嘉靖37年 (1558)
|
嘉靖38年 (1559)
|
69
|
遅鳳翔
|
嘉靖38年 (1559)
|
嘉靖40年 (1561)
|
70
|
趙孔昭
|
嘉靖40年 (1561)
|
嘉靖42年 (1563)
|
71
|
楊巍
|
嘉靖42年 (1563)
|
嘉靖43年 (1564)
|
72
|
李秋
|
嘉靖43年 (1564)
|
嘉靖45年 (1566)
|
73
|
冀錬
|
嘉靖45年 (1566)
|
隆慶2年 (1568)
|
74
|
王遴
|
隆慶2年 (1568)
|
隆慶4年 (1570)
|
75
|
孟重
|
隆慶4年 (1570)
|
隆慶5年 (1571)
|
76
|
吳兌
|
隆慶5年 (1571)
|
萬曆5年 (1577)
|
77
|
王一鶚
|
萬曆5年 (1577)
|
萬曆7年 (1579)
|
78
|
張佳胤
|
萬曆7年 (1579)
|
萬曆9年 (1581)
|
79
|
蕭大亨
|
萬曆9年 (1581)
|
萬曆15年 (1587)
|
80
|
許守謙
|
萬曆15年 (1587)
|
萬曆17年 (1589)
|
81
|
郭四維
|
萬曆17年 (1589)
|
萬曆19年 (1591)
|
82
|
王世揚
|
萬曆19年 (1591)
|
萬曆22年 (1594)
|
83
|
王象乾
|
萬曆22年 (1594)
|
萬曆29年 (1601)
|
84
|
彭国光
|
萬曆29年 (1601)
|
萬曆32年 (1604)
|
85
|
馬鳴鑾
|
萬曆32年 (1604)
|
萬曆35年 (1607)
|
86
|
連標
|
萬曆35年 (1607)
|
萬曆37年 (1609)
|
87
|
薛三才
|
萬曆37年 (1609)
|
萬曆40年 (1612)
|
88
|
汪道亨
|
萬曆40年 (1612)
|
萬曆46年 (1617)
|
*
|
吳崇礼
|
萬曆46年 (1617)
|
萬曆46年 (1617)
|
89
|
趙士諤
|
萬曆46年 (1617)
|
萬曆47年 (1619)
|
90
|
張経世
|
萬曆47年(1619) 7月[12]
|
泰昌元年(1620) 10月[13]
|
91
|
謝経邦
|
泰昌元年 (1620)
|
天啓2年 (1622)
|
92
|
王之臣
|
天啓2年(1622) 2月[14]
|
天啓3年 (1623)
|
93
|
徐良彦
|
天啓3年(1623) 11月[15]
|
天啓5年(1625) 2月[16]
|
94
|
張曉
|
天啓5年(1625) 3月[17]
|
天啓6年(1626) 7月[18]
|
95
|
秦士文
|
天啓6年(1626) 7月[19]
|
天啓7年 (1627)
|
96
|
李養冲
|
天啓7年 (1627)
|
崇禎2年 (1629)
|
97
|
郭之琮
|
崇禎2年 (1629)
|
崇禎2年 (1629)
|
98
|
楊述程
|
崇禎3年(1630) 6月[20]
|
崇禎3年 (1630)
|
99
|
沈棨
|
崇禎3年(1630) 10月[21]
|
崇禎5年 (1632)
|
100
|
馬士英
|
崇禎5年(1632) 7月[22][23]
|
崇禎5年 (1632)
|
101
|
焦源清
|
崇禎5年 (1632)
|
崇禎7年 (1634)
|
102
|
陳新甲
|
崇禎7年 (1634)
|
崇禎9年 (1636)
|
103
|
張維世
|
崇禎9年 (1636)
|
崇禎9年 (1636)
|
104
|
劉永祚
|
崇禎9年 (1636)
|
崇禎13年 (1640)
|
105
|
江禹緒
|
崇禎14年 (1641)
|
崇禎14年 (1641)
|
106
|
李鑑
|
崇禎15年 (1642)
|
崇禎15年 (1642)
|
107
|
朱之馮
|
崇禎15年 (1643)
|
崇禎17年(1644) 3月[24]
|
清代
順治 (1644) 元年旧暦5月、[25]清朝は明制を踏襲して宣大(宣府大同)総督および、順天巡撫、保定巡撫、宣府巡撫の三巡撫を設置した。[26]宣府巡撫は定員一名を宣府鎮に駐在させ、延慶と保安の二州を管轄することとし、[26]明代に宣府巡撫を務めた李鑑が任命された。[25]順治9年 (1652)、宣大総督に統合される形で廃止された。[26]
任職者
|
着任年
|
解任年
|
李鑑
|
順治元年 (1644)[25]
|
順治2年 (1645)[27]
|
馮聖兆
|
順治2年 (1645)[27]
|
順治9年 (1652)[28]
|
脚註
- ^ “職官二 (都察院附總督 巡撫)”. 明史. 73. https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷73#都察院_附總督_巡撫
- ^ “正統2年3月1日段17304”. 英宗睿皇帝實錄. 28. "辛卯朔陞監察御史盧睿為行在都察院右僉都御史廵撫大同宣府"
- ^ “正統5年4月9日段18294”. 英宗睿皇帝實錄. 66. "庚辰。逮右僉都御史・盧睿下獄。睿巡撫大同・宣府。瓦剌使臣回至大同、總兵官・朱冕等欲增供給羊二百隻。睿忿曰「軍民貧甚、此何從出、如此館待、何日是了。」語聞、上命睿自陳狀、睿飾詞不實。于是、給事中御史交章劾之、械睿至京、會官廷鞫、論罪應杖、遂下獄。"
- ^ “廢帝郕戾王附錄第五 景泰1年1月25日段21497”. 英宗睿皇帝實錄. 187. "巡撫大同宣府左副都御史・羅亨信、自陳年七十四、衰病不能理邊事、乞致仕。從之。"
- ^ “成化4年4月28日段27407”. 憲宗純皇帝實錄. 53. "以太僕寺卿・鄭寧、爲都察院左僉都御史、巡撫宣府地方。"
- ^ a b “成化7年10月10日段28459”. 憲宗純皇帝實錄. 97. "戊寅。敕巡撫大同、右都御史・林聰、代鄭寧往來、巡撫宣府。寧以憂去也。"
- ^ “成化8年5月16日段28650”. 憲宗純皇帝實錄. 104. "壬子。起復左僉都御史・鄭寧、巡撫宣府地方。時、寧居母喪、纔半歲。吏部舉之。寧乞終制。不允。"
- ^ a b “成化9年8月10日段29013”. 憲宗純皇帝實錄. 119. "改命右副都御史・殷謙、巡撫宣府、右僉都御史・鄭寧、巡撫大同。初、代王奏「謙當朝使、册封郡王、不隨侍行禮、出視邊墻、不辭而行、并役銀匠、而不給傭錢、諸不法事。」命戶科給事中・杜嶠等、往勘劾、奏「謙當逮問。」有旨「宥之。而勑謙與寧、兩易巡撫。」"
- ^ “弘治14年4月17日段37518”. 孝宗敬皇帝實錄. 173. "陞巡撫保定等府、都察院右僉都御史・張縉、爲右副都御史、巡撫宣府。"
- ^ “弘治14年11月15日段37737”. 孝宗敬皇帝實錄. 181. "己丑。改巡撫宣府、都察院右副都御史・張縉、總督漕運、兼巡撫鳳陽等處。"
- ^ “嘉靖24年3月26日段50739”. 世宗肅皇帝實錄. 297. "戊子。陞……河南按察使・孫錦、爲す右僉都御史、巡撫宣府。……"
- ^ “萬曆47年7月18日段72116”. 神宗顯皇帝實錄. 584. "勑張經世、陞都察院右僉都御史、巡撫宣府地方、贊理軍務。"
- ^ “泰昌1年10月10日段72564”. 熹宗悊皇帝實錄. 2. "……宣府巡撫・張經世、爲添設兵部右侍郎。"
- ^ “天啓2年2月29日段73081”. 熹宗悊皇帝實錄. 19. "陞山西布政使司參政・王之臣、爲都察院右僉都御史、巡撫宣府。"
- ^ “天啓3年11月26日段73705”. 熹宗悊皇帝實錄. 41. "陞……左通政・徐良彥、爲巡撫右僉都御史。良彥宣府。……"
- ^ “天啓5年2月23日段73985”. 熹宗悊皇帝實錄. 56. "得旨「……徐良彥貪險有名、豈堪重任、著降三級、調外任用。」"
- ^ “天啓5年3月16日段74007”. 熹宗悊皇帝実録. 57. "陞山西按察使・張曉、爲右僉都御史、巡撫宣府地方。"
- ^ “天啓6年7月22日段74496”. 熹宗悊皇帝實錄. 74. "陞……宣府巡撫、都察院右僉都御史・張曉、爲戶部右侍郎。"
- ^ “天啓6年7月25日段74499”. 熹宗悊皇帝實錄. 74. "陞……山西布政使司右布政使・秦士文、爲都察院右僉都御史、巡撫宣府。"
- ^ “崇禎3年6月17日段77877”. 史語所藏鈔本崇禎長編. 35. "陞楊述程、爲兵部右侍郎、兼都察院右僉都御史、巡撫宣府。"
- ^ “崇禎3年10月19日段77994”. 史語所藏鈔本崇禎長編. 39. "陞沈棨、爲右僉都御史、巡撫宣府等處。"
- ^ “崇禎5年7月19日段75307”. 崇禎實錄. 5. "乙卯。以馬士英、爲右僉都御史、巡撫宣府。丙寅。逮士英、以擅笞張家口守備。又、取都司庫六千金、太監・王坤密以聞。"
- ^ “崇禎5年7月20日段78637”. 史語所藏鈔本崇禎長編. 61. "丙辰。陞馬士英、爲右僉都御史、巡撫宣府。"
- ^ “崇禎17年3月7日段78894”. 明實錄:痛史本崇禎長編. 2. "乙未。李自成犯宣府。白廣恩、姜驤、叛降。監視太監・杜勳迎賊。巡撫・朱之馮不屈、賊磔殺之。"
- ^ a b c “順治1年5月17日段3293”. 世祖章皇帝實錄. 5. "以故明巡撫宣府都察院右僉都御史・李鑑、仍爲原官。"
- ^ a b c “職官三 (總督)”. 清史稿. 116. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷116#總督
- ^ a b “順治2年2月6日段3513”. 世祖章皇帝實錄. 14. "陞宣府巡撫・李鑑、爲兵部右侍郎、兼都察院右僉都御史、總督宣大等處軍務。○擢原任山西潞安府通判・馮聖兆、爲都察院右僉都御史、巡撫宣府。"
- ^ “順治9年4月6日段5347”. 世祖章皇帝實錄. 64. "丁未。戶部以錢糧不敷、遵旨會議。……一、宣府巡撫宜裁、以總督兼理。……"
典拠
史書
- 『明實錄』
- 巴泰, 他『世祖章皇帝實錄』康熙11年 (1672) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 馬斉, 張廷玉, 蒋廷錫, 他『聖祖仁皇帝實錄』雍正9年 (1731) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 張廷玉, 他『明史』乾隆4年 (1739) (漢)
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 民国17年(1928) (漢) *中華書局版
Web