宋晟宋 晟(そう せい、生年不詳 - 永楽5年7月2日[1](1407年8月4日))は、元末明初の軍人。字は景陽。本貫は濠州定遠県。 生涯宋朝用の四男として生まれた。至正15年(1355年)、父兄に従って朱元璋の下で長江を渡った。至正16年(1356年)、集慶路を攻め、次兄の宋国興が戦没すると、宋晟はその職を嗣いだ。至正17年(1357年)、鄧愈に従って徽州を攻略した。至正19年(1359年)、父の天寧翼元帥の官を嗣いだ。至正20年(1360年)、饒州と江西諸州を攻めた。洪武元年(1368年)、建寧を攻略し、武徳将軍・建寧衛正千戸となった。洪武4年(1371年)、懐遠将軍・建寧都指揮同知となった。冬、南京に召還されて江西都指揮使に進んだ。洪武9年(1376年)、大同都指揮使に転じ、龍虎将軍の号を受けた。洪武11年(1378年)、陝西都指揮使に転じた。洪武12年(1379年)、事件に連座して涼州衛指揮使に降格された。洪武13年(1380年)、北伐に参加し、白城に達した。洪武17年(1384年)5月、チベット系民族の反乱を討ち、亦集乃路にいたり、北元の海道千戸エセン・テムルや国公呉把都剌赤らを捕らえ、1万8千人の捕虜を得た。捕らえた首長を南京に送り、その精鋭1000人を登用して兵士を補ったほかは、捕虜を全て釈放した。南京に召還され、再び都指揮となり、右軍都督僉事に進み、そのまま涼州に駐屯した。 洪武24年(1391年)、宋晟は総兵官となり、都督の劉真とともにハミルを討った。豳王ビルゲ・テムルと国公以下三十数人を捕らえ、その部落の輜重を鹵獲して帰った。洪武25年(1392年)5月、藍玉に従って罕東を討ち、阿真川を巡り、現地の首長の哈昝らを敗走させた。凱旋すると、中軍都督僉事となった。 洪武28年(1395年)6月、宋晟は総兵官の周興に従って開原に進出し、忽剌江にいたった。部長の西陽哈が逃走したため、甫答迷城まで追撃し、人や家畜を捕らえて帰還した。洪武29年(1396年)、征南右副将軍の号を受け、広西の帡幪諸寨の苗族の反乱を討ち、7000人あまりを捕斬した。洪武30年(1397年)、羽林八衛の兵を率いて五開・龍里の苗族の反乱を鎮圧した。洪武31年(1398年)、開平府に出向して駐屯し、燕王朱棣に従って北伐し、万全諸衛に築城して帰還した。建文元年(1399年)、甘粛に駐屯した。 建文4年(1402年)、永楽帝(朱棣)が即位すると、宋晟は南京に入朝して、後軍左都督に進み、平羌将軍の号を受け、甘粛に帰った。永楽3年(1405年)、把都帖木児・倫都児灰らの部落5000人を招降した。西寧侯に封じられ、指揮使の位の世襲を認められた。永楽5年(1407年)、河西で牧地を経営し、塞北の経略を図るよう永楽帝に命じられたが、病に倒れた。7月、粛州で死去した。 子女
脚注
参考文献 |