安田文左衛門
安田 文左衛門[5](やすだ ぶんざえもん)は、江戸時代前期 - 中期にかけての大和郡山藩士、その後、護持院隆光の推薦により[5]常陸国水戸藩(水戸徳川家)に雇われた。清水仁衛門と共に、松波良利の水戸藩改革に関係した。 生涯「水府系纂」(彰考館所蔵)によれば、安田は元禄14年(1701年)7月25日に200石の書院番組(書院番士)として召抱えられた。その後、元禄16年(1703年)11月に割物奉行[6][注 2]、病のために宝永2年(1705年)11月に寄合組、宝永3年(1706年)8月に郡奉行、宝永4年(1707年)正月に再び寄合組になった。享保5年(1720年)7月6日に願により暇になっている[7]。その後筑波に隠退した。 元禄16年11月、安田文左衛門は書院番組から割物奉行(財政を司る)に任命され、「紙金」(藩札)発行のことを指図することとなった。そして、12月には江戸藩邸で発行方針が定まり、歳末27日、安田のほか興津良長(市郎兵衛)(300石、水戸藩奉行)・芦川政矩(市兵衛)(300石、水戸藩用人)らが新年早々水戸へ出向くよう命令を受けた。元禄17年(=宝永元年、1704年)2月、藩札発行の達(たっし)と共に、「紙金拵所」が水戸城内に開設され、役金奉行の垪和弥二衛門・逸見作衛門が紙金奉行に転じ、その下に札場金見1人、手代5人、そのほか役金方の下役人1人、合わせて7人が付属させられた。城下の町人から、駿河屋次(治)郎衛門と福島屋次(治)兵衛が札元としてこれに参加した。藩札用の紙は、久慈郡中染村(久慈郡水府村)の岡衛門に命じて漉かせた。紙の漉き方には特に念を入れて、縦横に一度ずつ漉いて紙質を丈夫にし、藩札の真贋を見分け易くして、贋札の出るのを防止しようとした。宝永元年4月27日から城下七軒町に「札場」(両替所)を開設し、正金を札金に引き換えるよう命令した[注 3]。藩札はわずか4年後の宝永4年10月に幕府が藩札禁止令を出したので停止となった[8]。 脚注注釈
出典参考文献
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