安田広春

 
安田広春
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 大永4年10月14日1524年11月9日)?
別名 弥九郎、北条広春、毛利広春
官位 丹後守
主君 長尾能景為景
氏族 大江姓毛利氏庶流安田氏北条氏
父母 父:安田清広 母:不詳
養父:北条輔広
兄弟 広春
高広(養子説あり)、養子:安田景元
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安田 広春(やすだ ひろはる)は、戦国時代武将越後安田氏及び越後北条氏当主。通称は弥九郎。官途は丹後守。

生涯

越後安田氏の出身であるが、同族の北条氏の当主も兼任していたという説が有力であり、北条広春とも言う。越後の安田氏は大江姓毛利氏の一族であることから毛利広春とも呼ばれる。

これに対する異説として、広春は安田氏・北条氏どちらの当主でもなく、その庶流から上杉氏の奉行人に登用された人物「毛利(大江)五郎」[注 1]であるとする解釈もある。丸島和洋は広春が安田清広もしくは後継者である弥九郎の娘婿であった可能性がある[注 2]ものの、弥九郎の没後には安田百(後の景広)が次期当主として認識されていたこと、北条氏は丹後守の没後も息子の松若丸(後の高広)が祖父にあたる北条輔広の後見を受けていたことからこちらの家督とも無関係であったとする[3]

永正4年(1507年)、守護代の長尾為景が、守護の上杉房能を討つという事件が起こる。その後上杉氏長尾氏の抗争が起きるが、広春は長尾為景に従い、越中神保氏攻めなどに従うなど、各地を転戦し、内政では長尾家の奉行職を務め、為景の側近として各種の折衝にあたった。

大永4年10月14日に死去(「専称寺過去帳」)[4][注 3]

広春の没後、安田氏は景元が、北条氏は北条高広がそれぞれ継承し、再び分裂した。

脚注

注釈

  1. ^ 永正18年作成の長尾氏老臣連署奉書など[1]
  2. ^ 安田氏の本領である安田の地は天文年間初頭になっても、景元ではなくかつての当主の娘とみられる女性の所領となっており、その女性が広春の妻で広春が一時的に名代を務めていた可能性は残されている[2]
  3. ^ なお、大永4年説と大永7年説がある某年12月16日付(長尾為景宛)長尾顕景書状(「上杉文書」所収)に「毛利丹後守方死去」と記されており、どちらの年代にしても毛利丹後守(安田広春)が大永年間に没したことを示すと考えられている。ただし、丸島和洋は「上杉氏における国衆の譜代化」は広春が名乗った通称は「大江五郎」であって毛利丹後守とは別人であり、享徳2年後半から同3年初頭に死去した可能性を提示する[5]

出典

  1. ^ 丸島 2018, p. 155.
  2. ^ 丸島 2018, p. 160.
  3. ^ 丸島 2018, pp. 153–171.
  4. ^ 黒田基樹『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年、172頁。ISBN 978-4-87294-786-1 
  5. ^ 丸島 2018, pp. 156・168-169.

参考文献

  • 丸島和洋 著「上杉氏における国衆の譜代化ー北条・毛利安田氏を素材に」、戦国史研究会 編『戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-308-4