安武方清
安武 方清(やすたけ かたきよ/ほうせい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏、立花氏の家臣。筥崎座主、法印、大僧正。 略歴父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主・麟清の養子となる。 天正14年(1586年)から始まる島津氏の筑前国侵攻時には、道雪の命令により、自身の組織する箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した。天正15年(1587年)8月には大僧正となる。 小早川隆景が筑前の国主となると、天正19年(1591年)箱崎と多々良に新たな橋を建てた際に、その現場指揮に当たった。 のち立花宗茂に従って筑後柳川に行く、朝鮮派兵で碧蹄館の戦いに無嗣のまま戦死した立花・戸次一門の立花鎮林(戸次鎮林)の跡を継ぐ。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると、その翌年に出家して茂庵と称し、家督を嫡男・豪清に譲った。元和6年(1620年)、立花宗茂が陸奥国棚倉から柳川藩主となった際に、茂庵は200石を賜る。茂庵の養子である東蔵人豪清も300石を賜る。 子孫は柳川藩士として仕えた。茂庵の名は現在も柳川市茂庵町(茂庵小路)として残っている。 出典
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