安岡嘉助安岡 嘉助(やすおか かすけ、天保7年11月22日(1836年12月29日) - 文久4年2月16日(1864年3月23日)は、幕末の志士。名は正定。 土佐国香美郡山北村の土佐藩郷士・安岡正理(文助)の二男として生まれる。母は同村・藤田柳蔵の娘・みつ。 土佐勤王党に所属し、文久2年(1862年)那須信吾・大石団蔵とともに政敵であった吉田東洋を暗殺して脱藩、京都で久坂玄瑞の保護を受け、一時薩摩藩邸に居留した。文久3年(1863年)いわゆる天誅組の変に参加して敗北。戦闘で負傷して捕えられて京都六角獄舎に入り、翌年に処刑された。享年29。 墓所は霊山墓地と香南市西坊山の安岡家墓地。 小説家の安岡章太郎は嘉助の子孫で、嘉助ら安岡一族を題材とした『流離譚』を著した。 安岡嘉助が登場する関連作品
脚注
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