孝女白菊の歌孝女白菊の歌(こうじょしらぎくのうた)は、井上哲次郎が作った漢詩「孝女白菊詩」に感動した落合直文が刺激を受け作った新体詩形式の詩で、明治21年(1888年)から明治22年(1889年)に作られた。内容は西南戦争時、行方不明になった父を慕う孝女の話である。その詩は当時の人々に感涙を流させ、独訳、英訳もされた。現地である阿蘇にもフィクションであるにもかかわらず碑や伝説を生んだ。 概略井上哲次郎の明治29年(1896年)の文章によると、[1]「余明治13年をもって東京大学を卒業し、直ちに欧州に留学する志ありしも、不幸にして当路之を阻むものありて、事容易にならず。(中略)幾多の詩篇を作りて、鬱を散じ悶を遣り、しばらく技芸の中に隠れて見る所を文辞の末に遇す。偶々孝女白菊の説話を構成し、微力のあらんかぎりを尽くして一大長編となさんと欲し、(中略)これを孝女白菊の詩となす。」とある。1行7字で404句の漢詩「孝女白菊詩」は、明治17年に月郵便報知新聞」に合計3回にわたって掲載された。落合直文はこの孝女白菊の漢詩を新体詩に書きなおした。明治21年(1888年)2月から22年(1889年)5月にかけて「東洋学会雑誌」に発表された。この文章は全国の少年少女に愛唱された。この詩はドイツの詩人カール・フローレンツにより明治28年(1895年)独訳され(独題:Weiss Aster)、さらに3年後に英国のアーサー・ロイドにより英訳され(英題:White Aster)、世界的に有名になった。[2] [3]その後は、昭和30年代までにかけて、小説、絵物語、絵本、漫画など、多くの形で人々の目に触れてきた。 孝女白菊詩
孝女白菊の歌
詩のあらすじ
熊本や阿蘇での反応昭和33年(1958年)9月、阿蘇郡長陽村(現南阿蘇村)の数鹿流ヶ滝付近に東海大学農学部を設置した松前重義は純白の大理石の孝女白菊の碑を建てた。なお、碑文は松前の夫人の筆になる。しかし、特別のゆかりの地ではなく、滝見物にもよかろうという現地の人の意見によった。「清水寺」というのがあり、白菊ゆかりの寺だとか、その他、こじつけた話は多いが、孝行少女の話である。宣伝につかってもよろしかろうという意見もある。 昭和26年(1951年)に熊本の荒木精之は「阿蘇の伝説」の中で孝女白菊の話として4ページに概要を記述、また昭和36年(1961年)に山崎貞士は松前が建てた記念碑を紹介した。福岡出身の野田宇太郎は九州文学散歩で実地を訪ね実話としている。熊本の文化財保護専門委員の笹原助は熊本出身の池辺義象(西郷方熊本隊隊長池辺吉十郎の従弟の子)は東大の古典科で落合直文と同級生であった。阿蘇の峰や谷の変化に富む地勢を落合直文によく説明してやったとある。 荒木精之や内田守によると、白菊物語がフィクションであるが、史実を問題にする必要はなく、阿蘇の名前で宣伝になれば、いいとしている。 文献
4.大原敏行『明治長編詩歌 孝女白菊 -井上哲次郎・落合直文から ちりめん本、鷗 外、画の世界までー』(創英社、2015年) 関連項目外部リンク |