姉川(あねかわ/あねかは[12])は日本海軍の通報艦。艦名は滋賀県の姉川に因む[13]。ちなみにロシアでの旧名である「アンガラ」も河川名であり、発音が似ているから「姉川」としたという推測もある[14]。
概要
元々はイギリスのクライドバンク社で1898年(明治31年)9月に進水したロシア義勇艦隊の汽船「モスクワ」。オデッサからウラジオストクや旅順へ陸兵や軍需物資を輸送していた。日露間の緊張が高まったため1903年(明治36年)に15cm砲4門などを積み仮装巡洋艦に改装、「アンガラ」と命名され同年末に旅順に来港した。
日露戦争開戦後の1904年(明治37年)3月に備砲を撤去し病院船となっていたが、ロシア海軍は日本側にきちんと通告していなかった。そのため旅順陥落で自沈していた本船を日本軍が浮揚し整備、1905年(明治38年)6月3日に「姉川丸(あねかわまる/あねかはまる)」と命名[15]。「姉川丸」は仮装巡洋艦とされ、9月5日に工事が完了し、同月末に就役した[16]。10月23日、横浜沖で実施された凱旋観艦式に参加[17]。
1906年(明治39年)3月8日、通報艦「姉川」とされる[4]。
戦後にロシアから病院船の拿捕であると抗議を受け、結局明治天皇からロシア皇帝に贈与する形で返還することとなった。1911年(明治44年)8月22日除籍し宮内省に移管する。9月2日呉港を出港し同月6日のウラジオストク到着後、同地でロシアに引き渡された。
船名は「モスクワ」に戻る。1916年(大正5年)11月に「ペチェンガ(Pechenga)」と改名、1922年(大正11年)までは機関不能の状態でウラジオストクにあった[18]。
艦長
日本海軍
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 姉川丸
- 石橋甫 大佐:1905年8月12日 - 1905年11月21日
- 花房祐四郎 大佐:1905年11月21日 - 1906年3月7日
- 姉川
- 花房祐四郎 大佐:1906年3月8日 - 1908年5月15日
- 山本竹三郎 大佐:1908年5月15日 - 1908年12月10日
- (兼)笠間直 大佐:1908年12月10日 - 1909年10月11日
- 小黒秀夫 大佐:1910年4月9日 - 1910年6月22日
- (兼)田所広海 大佐:1910年6月22日 - 1910年9月26日
- 広瀬順太郎 大佐:1910年9月26日 - 1910年12月1日
脚注
注釈
- ^ #海軍制度沿革巻八p.11では単に排水量とあるが、#日本補助艦艇物語pp.378-379では常備排水量としている。
出典
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 『日本海軍史』 第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年11月。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9。
- 『世界の艦船増刊第44集 日本軍艦史』、海人社、1995年8月、ISBN 4-905551-55-2。
- 福井静夫『日本補助艦艇物語』 福井静夫著作集第10巻、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』潮書房光人新社、2024年、ISBN 978-4-7698-3361-1
- 『官報』
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C10100587500『明治39年1月1日~明治39年12月1日 軍艦姉川丸現状報告』。
- Ref.C09050798400『海令機密第20号に対する回答及関係書類7止戦利艦艇(12)』。
関連項目
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a:通報艦として計画、b:通報艦に類別 |
類別等級制定前 | | |
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水雷砲艦 | |
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新造艦 | |
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鹵獲艦 | |
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