奥村易英
奥村 易英(おくむら やすひで)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田家の家臣、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家初代当主。発給文書で確認される実名は可郷(慶長期)[2]→栄郷(元和期)→易英(寛永期)。 生涯元亀2年(1571年)、前田氏の家臣・奥村永福の子として誕生。 天正12年(1584年)、佐々成政に末森城を攻められた際に父や兄と共に城を守る(末森城の戦い)。その後、1000石の知行を賜り世子、前田利常に仕える。天正18年(1590年)、豊臣氏の小田原征伐に出陣し八王子城攻めで戦功を立てる。また、慶長5年(1600年)、大聖寺城攻めで戦功を立て2000石加増される。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍して真田丸の戦闘に参加し、4500石を加増される。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父・永福と共に金沢城の留守居を務めた。元和2年(1616年)に加賀藩家老となり、前田利次や前田利治誕生の際には蟇目役を務めた。また父の死後、遺領3300石を相続している。 寛永20年(1643年)10月光高の江戸出仕の際に、前田貞里と共に金沢城代に任命された(再任)[3]が、同年12月21日に死去、享年73。 家督は嫡男・和忠が先立って死去したため、奥村庸礼が嫡孫承祖した。また外孫の正富も養子となり1000石を賜り、分家して馬廻組となった。 脚注参考文献
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