太田聴雨太田 聴雨(おおた ちょうう、1896年(明治29年)10月18日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、大正から昭和時代にかけて活躍した日本画家。本名は栄吉。初号・別号に翠岳。 略伝生い立ち宮城県仙台市出身。父は聴雨が生まれて間もなく妻を離縁したため、聴雨は母の愛情を生涯知らずに育った。後年、「制作の動機は、母を慕う心の永遠化にある」としばしば人に語っており、この生い立ちが聴雨芸術の根幹を作ったといえる。聴雨は役所では祖父の四男として届けられ、山師だった聴雨の父は不在な事が多かったため、祖父の元で育った。祖父は二日町(青葉区)で寿司屋を営んでおり、幼少から飯炊き、水仕事、漬物の仕込みと言った家業を手伝わせていた。11歳の時祖父が亡くなると、叔父や叔母に引き取られ物思いに沈む少年になっていった。 1910年(明治43年)上杉通小学校を抜群な成績で卒業。翌年14歳の時、東京で印刷工として働く父に引き取られ、上京。間もなく川端玉章門下の内藤晴州の内弟子となる。聴雨の画号もその頃から使い始め、元代の禅僧・煕晦機の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」に由来する。その3年目、食費を負担しきれなくなり父宅へ戻る。家計を助けるため、不本意ながら書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送る。 青樹会1913年(大正2年)巽画会第13回展に《鏡ヶ池》を出品して初入選。当時、巽画会は新進画家たちの登竜門であるだけでなく、青年画家の育成を謳って定例の研究会を開いていた。聴雨はこれに参加すると共に、終生の画友となる小林三季ら同輩の仲間と別に研究会を持ち、研究を40数回重ねた1918年(大正7年)青樹会とした。既に会の中心人物となっていた聴雨は、会として展覧会を開いて世にでるため、信者と偽って浅草メソジスト教会の部屋を借りて第一回展を開く。翌年の第二回展以降、作品を公募して会の拡張を図る。この頃の聴雨は、文展や院展に出品した形跡がなく、青樹会の発展に自分の未来をかけていた。この頃の作品はあまり残っていないが、そうじて文学趣味でロマンティシズムを感じさせる作品が多い。 1922年(大正11年)には「反帝展・反院展」を旗印に、日本画の小団体である高原会・蒼空邦画会・行樹社・赤人社と第一作家同盟を結成する。これは日本のプロレタリア芸術の先駆けとして知られているが、その主体である高原会一派の政治色が明確になると、その年のうちに青樹社はこれを脱退している。ところが、翌年第六回展を開いていると、ちょうど関東大震災が襲い、経済的基盤をもたない青樹社は資金難に陥り、会員は四散してしまう。深い挫折を味わった聴雨は、生活のために挿絵は手がけるものの本画制作の筆を絶ち、再起に三年を要した。 院展同人へ1927年(昭和2年)三季の紹介で前田青邨に入門して再出発する。既に31歳になっていた聴雨の心を支えたのは聖書であった。院展に二年続けて、キリストを主題とした作品を出品するも落選。1930年(昭和5年)今度は一変して、當麻寺の中将姫伝説に取材した《浄土変》(現在所在不明)で、第1回日本美術院賞を受け一躍脚光を浴びた。その後も、《お産》《種痘》《星をみる女性》などの名作を送り出していった。 1944年(昭和19年)家族とともに伊豆・下田に疎開、同26年に東京芸術大学助教授になるまでの7年間を過ごす。戦後、岩絵具を厚く塗り込める日本画が流行しても、当初聴雨は伝統的な日本画を守ろうとした。1948年(昭和23年)の《二河白道を描く》は、正にそうした画家の自画像と言える。しかし、1950年(昭和25年)ごろから方向転換を図り、岩絵具本来の色を活かしながら色面を構成することで、物の形を表す画風へ進む。 1958年(昭和33年)東京芸術大学美術学部日本画科教授に昇任したばかりの3月、脳出血のため死去。享年62。同年11月~翌年1959年(昭和34年)1月まで、神奈川県立近代美術館にて、太田聴雨回顧展が開催される。
代表作
脚注
参考文献
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