太田玉茗太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4年5月6日)[1] - 1927年(昭和2年)4月6日)は、日本の詩人、小説家。名は伊藤蔵三(のち太田玄綱から三村玄綱と改名)。僧職のかたわら叙情派詩人として知られ、初期新体詩詩人の一人。田山花袋の義兄にあたり[2][3]、『田舎教師』の献辞に「この書を太田玉茗氏に呈す」とある[4]。 来歴武蔵国埼玉郡(埼玉県行田市)出身。1888年、曹洞専門本校大学林(現・駒澤大学)卒業。1894年7月に東京専門学校文学科卒業、同期に島村抱月、後藤宙外がいる。小学時代に、羽生市の建福寺住職・太田玄瞳の養子となり、12歳で僧籍に入る。1888年(明治21年)から「頴才新誌」に投稿をはじめ田山花袋を知り、雑誌「少年文庫」「文学界」各誌に新体詩をつぎつぎと発表して新体詩人として認められる。1897年(明治30年)田山花袋、柳田國男、国木田独歩、嵯峨の屋おむろらと『抒情詩』を刊行[1]。「花ふゞき」が収録された。真宗勧学院教授に就任。1899年(明治32年)建福寺住職となる[1]。1908年頃、文壇を離れた。1927年(昭和2年)4月6日逝去、56歳。 著作
関連文献出典
外部リンク |