大関増公
大関 増公(おおぜき ますきみ)は、江戸時代の旗本。下野国黒羽藩3代藩主・大関高増の三男。 正保3年(1646年)11月12日、父・高増の遺領から下野国芳賀郡の1000石を分与される。承応2年(1653年)3月15日、将軍徳川家綱に拝謁。万治2年(1659年)7月11日に書院番となり、寛文12年(1672年)2月8日より屋敷改の役目を務める。延宝3年(1675年)1月26日に使番となり、天和2年(1682年)1月11日より奈良奉行に移り、大和国式上郡500石を加増される。その時の部下に与力の玉井定時がいる。貞享2年(1685年)7月8日死去、享年45。嗣子が無かったため家禄を没収され、後に元禄14年(1701年)になって大関増直が家跡を相続した[1]。 脚注 |