大道寺小三郎
大道寺 小三郎(だいどうじ こさぶろう、1925年(大正14年)5月1日 - 2005年(平成17年)7月21日[2])は、日本の銀行家、実業家。みちのく銀行頭取を務めた。 来歴・人物北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。医家に生まれ、父・小市は函館市に診療所を開設。のちに病床を20以上備えた函館一の規模を誇る病院となった[3]。 旧制函館中学、旧制弘前高校を経て東北大学法学部を卒業する[4]。弘前高校時代の同期には鈴木清順(映画監督)、一期下にはその弟の鈴木健二(NHKアナウンサー)もいた[3]。 大学卒業当初は、弁護士を目指して司法試験に6度挑戦したとされるが、突破できなかったため、渋々ながら齢32にして当時の弘前相互銀行に入行。不良債権処理に奔走したほか、新商品の企画にも携わった。また弘前高校時代における身元引受人で仲人でもあった唐牛敏世頭取の側近として、青和銀行との合併にあたっては、大蔵省、与党政治家との折衝を重ねた[3]。 1986年、葛西清美頭取の後任として昇格する。トップ在任時は、ロシアに積極的に進出するなど他行とは一線を画した経営手腕は高い評価を得てカリスマバンカーと呼ばれ[5]、「家庭の銀行」をキャッチフレーズに掲げ、個人預金をたくさん集め、住宅ローンも積極的にやった。その結果、預金残高は、1990年から2004年までで、1.5倍伸び、個人預金に占める割合は55.9%(90年)から、76.4%(04年)に伸びている[6]。預金量などで常に上をいく青森銀行も急成長するみちのく銀行に「瞬間風速では、負けていたはずだ」(青森銀行関係者)と話す[6]。県を始めとする地方自治体、老舗企業のほとんどがすでに先行の青森銀行に押えられていた。みちのく銀行が、リテール戦略を展開するのは必然的な流れでもあった[6]。 ワンマン経営者として「俺は9年間で50億円もうけた」。2003年の青森アジア大会冬季大会の寄付問題では県に苦言を呈するなど、歯に衣着せぬ発言で知られた[6]。「うちには頭取候補がたくさんいる」と客の前でよく口にし[7]、のちに頭取として復帰した杉本康雄常務や、頭取候補にも挙げられた図司俊之専務ら、大道寺の逆鱗に触れれば、役員でも格下げされる人事はたびたび見られた[7]。 2004年から体調を崩し、表に出ることもなかった。4月、赤字決算の責任を取り、原田和夫頭取が辞意を示してからの後任探しは難航。5月末の役員会で原田頭取が次期頭取候補の名前を示すとともに、一連の不祥事の責任を取り、取締役全員に辞表を出すよう切り出すも、「頭取は私たちにこれまで何も相談もしてこなかった。あまりにも突然ではないか」「辞表を書けと言われても、あすからどうすればいいのか」。と紛糾した[8]。大道寺が元気だった頃は、物を言う役員もおらず、役員会は紛糾することはほとんどなかった[8]。すでに辞意を示している原田頭取に混乱を収める力はなかった[8]。話し合いは夜まで続いたが、流会となった[8]。 成城大学法学部卒業後、三井物産本社、三井物産(香港)勤務を経て、地方放送局にてラジオ番組ディレクターとして勤務していた長女を、みちのく銀行が1999年に「北日本財務(香港)有限公司」を設立したとき、香港勤務の経験を買って同現地法人に採用した。しかし、長女は「慢性骨髄性白血病」の父を看病するため、2005年5月に退職している[注 1]。 2005年7月21日、心不全のため青森市内の病院で死去。80歳没[2][5]。8月25日、みちのく銀行の主催によってホテル青森で開かれたお別れの会には、三村申吾知事、県選出の国会議員、県内の市町村長など約2000人が参列[1]。故人をしのんだ。記者会見で杉本頭取は「大道寺さんは、涙もろいところがあった。公務員の給与振り込み(件数)で予想以上のよい結果が出て、懇親会の席上、行員の前で涙を流していたことを覚えている」と思い出を語った[1]。 地域貢献大道寺は、一貫して地域貢献に情熱を傾け、青森県民駅伝競走大会や、日本フィルハーモニー交響楽団演奏会など多くのスポーツや文化活動を支援したほか[9]、自らが提唱者として設立したみちのく文化財団では、傘下施設としてみちのく北方漁船博物館(現・あおもり北のまほろば歴史館)、みちのく歴史人物資料館(2014年閉館)を開館させた。博物館には自身が趣味として収集した船舶関連の資料を収蔵させ、その成果のひとつとして北前船の復元に着手し、2005年にはみちのく丸の完工と相成った(2014年に野辺地町に無償譲渡)。また、資料館には青森県ゆかりの人物のほか、唐牛をはじめ、みちのく銀行関係者についての資料も収蔵させた。それ以外にも行員の提案により、1997年度には本店屋上に風力発電装置を設置し、フォード社のクラシックカーを購入した。 略歴
関連書籍
脚注注
出典
参考文献
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