大河百々代
大河 百々代(おおかわ ももよ、1922年1月4日 - 1942年7月)は、日本の女優である[2]。父は大都映画創立者の河合徳三郎、姉は女優の琴路美津子、異母姉も女優の三城輝子である[2]。満20歳で早世した。 人物・来歴1922年(大正11年)1月4日、東京府東京市(現在の東京都区部)に、のちに河合映画製作社、大都映画を設立する河合徳三郎を父とし、「大川世喜子」として生まれた[1][2]。 東京高等音楽学院大塚分教場(現在の東邦音楽大学)に学び、1934年(昭和9年)に父の経営する大都映画に12歳で入社する[2]。同年、隼秀人(のちのハヤフサヒデト)主演、大江秀夫監督のサイレント映画『俺は日本人だ』に出演して、映画界にデビューする[2]。翌1935年(昭和10年)には、姉の琴路美津子がハヤフサと結婚して引退、百々代は姉に代わってハヤフサの相手役のヒロインとなる[2][1]。ハヤフサの監督作にも多く出演した[3]。 1937年(昭和12年)12月3日、父の徳三郎が死去し、兄覚太郎が二代目河合徳三郎を襲名して同社の経営を引き継いだ。 現代劇で活躍したが[2]、父の没後3周年を迎えた1940年(昭和15年)11月7日に公開された映画『愛情の権利』を最後に[3]、翌1941年(昭和16年)春義兄ハヤフサヒデトと共に大都を退社[4]、1942年(昭和17年)7月に病没した[5]。 わずか6年のキャリアで100本を超える映画に出演した[3]。出演作のなかで現存するフィルムは、『法廷哀話 涙の審判』(監督吉村操、1936年)、『争闘阿修羅街』(監督八代毅、1938年)のみである[6]。 フィルモグラフィ1934年1935年
1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
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