大久保忠辰
大久保 忠辰(おおくぼ ただとき)は、江戸時代前期の武将、江戸幕府旗本。 生涯三河譜代・大久保氏の一族で、徳川家康に仕えた大久保忠益の長男。幼少時より家康の嫡男・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは弟の忠政とともに秀忠軍に附属する。慶長19年(1614年)忠辰の再従兄弟にあたる幕府重鎮・大久保忠隣が失脚するとこれに連座し、弟の忠政・忠尚ともども閉門となる。同年、大坂冬の陣では弟たちとともに密かに秀忠勢に列する。翌年の夏の陣では松平忠明勢に属し、道明寺の戦いと天王寺の戦いでそれぞれ首級を挙げた。このため閉門を許されて旗本に復帰し、使番や徒頭などを歴任した。没年については元和6年(1620年)と寛永11年(1634年)とする説がある。忠辰の男子は早世したため、忠辰の家督は断絶している[2]。 脚注注釈出典出典
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