PERGURUAN TINGGI
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多田羅譲治
多田羅 譲治
(たたら じょうじ、
1949年
〈
昭和
24年〉
11月11日
- )は、
香川県
坂出市
出身の
政治運動家
。NPO法人「明日に架ける橋」代表、福祉生協かがわ専務理事。
立候補歴
1989年
坂出市長選挙 無所属 得票数 13,402 落選 対立候補は
松浦稔明
1998年
香川県知事選挙 無所属 得票数 55,933 落選 対立候補は
真鍋武紀
2002年
香川県知事選挙 無所属 得票数 77,527 落選 対立候補は真鍋武紀と、
佐佐木アシュファ麻コ
2006年
香川県知事選挙 無所属 得票数 98,493 落選 真鍋武紀に三度敗れる
略歴
1968年
香川県立高松高等学校
卒業、
東京大学
文科I類入学。
ノンセクト
として
学校封鎖
や
安田講堂事件
の現場に居合わす一方、
漕艇
部活動にも打ち込み、20歳で学生結婚する。大学側の無試験進級策に反対して、必修単位のレポートを敢えて提出しなかったため、2年留年。
1974年
東京大学法学部
卒業。
1978年
家業の
薬局
チェーン
経営を継ぐため
高松市
に帰郷。
1981年
実家のある坂出市に転居。
1983年
坂出市で、
市民オンブズマン
参加型市政を目指す「横丁通信」活動を開始。
1985年
坂出
商工会議所
常任委員に就任。
1987年
香川テレビ放送網
で自主制作番組「横丁ちゃんねる」を開始。
1989年
坂出市長選挙に無所属(「さかいで21世紀をいっしょに創る会」)で立候補したが、落選。その後、香川県
生活協同組合
(現
コープかがわ
)で常務理事、専務理事を歴任。
1997年
コープかがわを退任。
真鍋光広
らと共に「市民・ネットワーク・パーティ(
民主党香川
)」を結党。
1998年
旧民主党
の改変に伴う混乱で中央政界との関係が疎遠になったため、民主党香川を離れ
無党派
の
勝手連
組織「チヂダス」(知事を出す、の意)を結成。これを運動母体に、脱
談合
、反
天下り
と県政の透明化を掲げて香川県知事選挙に立候補したが、
オール与党
推薦の元
キャリア官僚
で、高校~大学の先輩に当る
真鍋武紀
との、無所属・新人同士の闘いに大敗。
1999年
「チヂダス」の活動を引き継ぎ、地域振興
ミニコミ誌
「さぁかす」を創刊。
2002年
環境問題
と
プール金
の存在が焦点化した香川県知事選挙に、無所属(「あすの香川を創ろう会」)で再立候補。当初は資金カンパと選挙ボランティア主体の勝手連運動に拘泥し、既製政党からの協力の申し出を固辞していたが、苦戦するに従い翻意して、独自候補者擁立を断念した
自由党
と、
共産党
県委、更に
社民党
県連の一部より実質支援を受け入れたものの、低投票率に
第三の候補
との票割れが重なり、落選(2度目)。応援に
平野貞夫
(自由党副幹事長=当時)、
宮崎学
、
戸田久和
らが駆け付けた。
2003年
「さぁかす」を
NPO
法人化した「明日に架ける橋」を設立。
2004年
「福祉生協かがわ」を設立。
2005年
身障者向け
授産所
を設立。
2006年
香川県知事選挙に無所属(「あすの香川を創ろう会」)で再々立候補。共産党県委は最初から支持し、本部から「原則
相乗り
禁止」の方針を下された
民主党
県連と
連合
香川、加えて社民党県連も候補者を立てられず自主投票に陥ったため、それらの一部が支援に回ったが、投票率の更なる低下も響き、真鍋武紀との一騎討ちにダブルスコアで完敗した(3度目)。但し、回を追う毎に得票数・得票率は上昇していた。
2010年
この年の香川県知事選挙
には出馬しなかった。なお、共産党は公認候補を立てた。
関連項目
前川忠夫
脇信男
外部リンク
多田羅譲治(たたらジョージ)のホームページ
NPO法人「明日に架ける橋」
福祉生協かがわ